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ホテル情報誌「ホテルジャンキーズ」掲載記事より 私のホテルジャンキー史 My Sweet & Sour Memories 「流行りものは、みんなやりました」 80年代前半に東京・中央線沿線の大学で学生生活を送り、 東京で会社勤めをしてきた岡田治美さんが綴る、 セキララな「私のホテルジャンキー史」です。 ===== '80s ===== ■■■'80s■■■ ■西新宿のシティホテルで遊ぶ 1982年にリリースされた松田聖子の名曲「Sweet Memories」。あらためてホテルと共に歩んだ自分の青春を振り返ると、まさにこの歌詞のごとく、なつかしく甘く切ない記憶の数々が蘇ってきます。 私が学生だった八〇年代前半は、まだバブル到来前でしたし、特に女子学生には就職氷河期と言われたキツイ時代だったにも関わらず、田中康夫著「なんとなく、クリスタル」(八〇年)風に遊びたい、バブリー予備軍みたいな若者が大勢いたものでした。 私自身はクリスタルがシャンパンの名前だということすら知らないような野暮ったい学生だったわけですが、それでも「シティホテルで遊ぶ」、そういうのに少しはまり始めていた頃でした。 当時はものすごいディスコブームで、それを支えていたのは六本木界隈の有名ディスコ群でしたが、西新宿あたりの最先端シティホテルにもディスコが併設されていました。六本木より落ち着いていて、どちらかというと社会人向けなので、ちょっと背伸びし、つま先立ちで、ヒルトン東京の「ムーンチャイルド」とか、センチュリーハイアット東京(現ハイアットリージェンシー東京)の「サンバクラブ」とか…に通っておりました。 待ち合わせは京王プラザホテルの二階のバー「Let's」で(ホテルのバーは明朗会計で女子学生でも怖くないからちょうどいいワ、などと生意気なことを言っていた私)。軽く何かお腹に入れ、一杯飲んでから踊りに行くパターンです。 踊って踊って踊り狂っても、ディスコの喧騒から一歩外に出ると、静かなたたずまいの西新宿のオフィス街。踊り疲れて外に出ると、そこからさらに疲れてしまう六本木や歌舞伎町とはわけが違うの。大人な自分を演出できる、「ふふふ、どうよ!」な雰囲気。満足感が満ちあふれます。 しかし、最終的には「遅くなったからこのまま泊まっちゃおっか」にはなりません。所詮アルバイトの稼ぎで必死に遊びに来ているしがない学生です。ホテルのキーをちらつかせ上層階に向かうお兄さんお姉さんを横目に、終電めざして新宿駅に向かって早歩き。私が帰らなくてはいけないのは門限が厳しいから、と自分に言い聞かせつつも、送りの車がないっていうのは少し情けなかったかな…。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.62より ■シティホテルのプールで焼く 八〇年代、オシャレヤングの夏の風物詩にシティホテルの屋外プールというのがありました。なぜあの時代、オシャレな若者は「ホテルのプール」だったのか。 当時はサーファー系のファッション全盛で、サーフィンをやる人もやらない人も、真っ黒に日焼けして、ファラフォーセット風ヘアーにファラーのパンツ、などというのがカッコ良かったわけですが、残念ながらまだ「日焼けサロン」というのがない時代。皆どこかで焼いて来なくてはならないわけですが、焼くためだけにハワイなんて無理。湘南はドス黒い砂浜が見えないくらいの人混みで、かつ海は味噌汁のごとく濁り、しかも砂で汚れる。豊島園は波のプールではしゃぐ煩い家族連れと、流れるプールで抱き合って流れている中高生のカップル…。 違う!ここじゃない、私の居場所は!という若者は、気取ってシティホテルのプールで焼いたものでした。最近のホテルのプールは室内が主流ですし、利用者も泳ぎや水中エクササイズ目的が大半ですから、太陽の動きに合わせてデッキチェアの角度を変えて、などというのはとても懐かしい話です。 で、どこのプールが人気かというと、ニューオータニ東京、東京プリンスホテル、東京全日空ホテル(現ANAインターコンチネンタルホテル東京)、ちょっと遠出で横浜プリンス(閉鎖)のプール等々(全体的になんとなくレトロな響きです)。だいたい週末は一日五千円から、高いところで八千円程度の利用料でした。当時の若者には少々キツイ価格設定でしたが、三千五百円くらいの安いのに飛びついて行ってみたりすると、ビルの谷間の屋外プールだったりして、全然陽が当たらず、「これじゃ来た意味ないじゃん」みたいになるのです。 また、プールパック(プール利用券付き宿泊プラン)などというのも皆利用していました。価格相場は一泊一人一万円台後半だったように記憶しています。予約してルンルンしていても、そういう日に限って雨だったり曇り空だったり…。日焼け目的のプールパックは本当にリスキーでした。 そういえば、このブームに少し遅れて六本木プリンス(閉鎖)に奇妙な使途不明の屋外プールができました。入るのに相当の勇気の要るプールでしたが、一度くらい挑戦してみたかったかな…。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.63より ■プリンスが憧れだった時代 八○年代、若者の心をときめかせていたホテルグループとは。そうですね、言うまでもなくプリンスホテル軍団でした。シティホテルだけではなく、海リゾート系、山リゾート系と完璧なラインナップで当時の若者たちを夢の世界に誘ってくれました。 たとえばあの大磯プリンス&大磯ロングビーチだって、海のない埼玉県民の私には憧れでした。夏場はホテルに泊まってプール三昧もいいですが、宿泊者にはテニスコートが二時間無料なので、涼しい季節、お姉さん達はこちらも楽しみます。 意気ごんで買ったヨネックスの R22(私はエバートよりナブラチロワ派でした)を携えお気に入りのエレッセのスコート姿で挑戦するも、意外にも激しい海風にさらされるというロケーションは実はまったくテニス向きではなく、早々に撤収。結局プール以外何もやることがなくなってしまうのですが、それでもけっこう幸せでした。 また、寒い季節になると、ユーミンの歌とホイチョイ・プロダクションの戦略にまんまと乗せられ、レオ印のバスに向かって思わず叫ぶ「私をスキーに連れてってぇ!(下手だけど)」。人気映画の舞台となった焼額スキー場&志賀高原プリンスや、主人公の会社のイベント会場だった万座プリンスは、もうその施設名を見るだけで主題歌が聞こえてくるような昂揚感を与えてくれました。 なぜか万座プリンスはパッケージプランが安かった(たぶん併設のスキー場が狭くてリフト数もわずかだったからでしょう)。ただし、実際宿泊するのは勤務先が契約している山荘で、プリンスには温泉に入りに行くのみ、なんていうことも。でも温泉だけで十分幸せでした。 そして、泣く子も黙る「聖地」苗場プリンス&スキー場。たけのこ山の頂上からボーゲンオンリーで二時間かけて根性で降りてきた後、宿泊する一番安価なお部屋はツインなのに二十平米を切る山小屋的狭さ。確かに全然ゆったりはできませんが、そこは若さでカバー。持ち込みのお弁当を食べ、現地ではめいっぱいの節約。でも苗プリに泊まっているだけで、本当に幸せでした。大げさでなく、プリンスのパワーって凄かったぁ…。 いま思えば、経年変化というのは人間にもホテルにとっても恐ろしいものです。近年、ちょっとプリンス軍団から足が遠のいてしまいました。そういえば、最近プリンスは「ザ」とか「グランド」とか付いた新バージョンを誕生させましたが、かなり変わったのかな…。また昔のようにときめかせてほしいです。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.64より ■輝く「プリンス」シティ 八○年代のホテルの思い出、今回は前号に引き続き、古きよきプリンスホテルの「シティ編」です。当時、都心のホテルにしては意外な感じですが、品川プリンスホテルにはスケートリンクが併設されていて、フィギュアだけでなくアイスホッケーの試合も開催されていました。 特にアイスホッケーの大学対抗戦には、選手を応援する友人・家族・ガールフレンドたちがオシャレをして駆けつけ、なかでもK大学の試合の時などは、まことに華やかな雰囲気が漂い圧巻でした。 もちろんK大学のスケート部に知り合いなどおりませんが、私もその雰囲気のおこぼれにあずかろうと、ピューミニのダウンとかカウチンセーターとかを着こんでボーイフレンドを応援する振りをして、少し前に大ヒットした映画「ある愛の詩」のアリー・マッグロウ気分で紛れこんでいました。観戦中は凍死しそうに寒いので、ちょっと抜け出してサブリンクのほうに行くと、プロに転向した渡部絵美さんがよく練習をしていました。美しい思い出です…。 そして、プリンス物語の最後は、やはりこのホテルで締めさせてください。極めつけのシティホテルだった「赤プリ」(閉鎖)。 今は昔ですが、あの頃の我々には果てしなく荘厳に感じられた旧館と、丹下健三氏設計の白亜(当時は「純白」に見えました)の新館は、いずれも若者の憧れの象徴みたいなものでした。新館は、客室内も目もくらむような白のインテリア、大きなカーブを描く窓がセレブ感をいっそう引き立たせ、そのオーラは若者をドキドキさせたのでした。 男性の場合、厳かなイメージの落ち着いた旧館のバーと、スタイリッシュという言葉の権化のような新館のバーと、ガールフレンドの好みはどちらか…、などと悩んだのではないでしょうか。 新館のバーにエスコートしてくださった男性が、乾杯の時にカッコつけて暴走し、「Here's looking at you, kid! 君の瞳に乾杯! ※」と口走ったため、私は驚きと恥ずかしさでドン引きした、という甘酸っぱい?記憶が蘇ります。ちょっと微妙な話ではありますが、美しい思い出です…。 そういえば、仕事を始めたばかりのバブル前夜の頃は、しばしば職場の近くのサンシャインシティプリンスホテルのやけに広い和室に五、六人で泊まって、夜通し飲んでしゃべって過ごしました。内風呂が大きくて気持ち良かった思い出があります。最近、シティホテルの和室って泊まってないなぁ。 ※ 映画「カサブランカ」での主人公ボギー(ハンフリー・ボガード)の台詞です。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.65より ■港ヨコハマのホテル ほんとうにあの頃を思い起こすと切ない気持ちになります…。 八○年代前半の私は、小学生の頃からずっと埼玉県(世に言う「海なし県」)在住、ということも手伝ってか、青春の必須アイテム「海」→「ヨコハマ」への憧れが強烈でした。 ハマトラファッションの三種の神器「フクゾーの服」、「ミハマの靴」、「キタムラのバッグ」に身を固め、埼玉から京浜東北線で往復四時間かけて元町や中華街に出かける姿は、傍から見れば滑稽だったかもしれませんが、当時は意気揚々とひとり小旅行を重ねていました。 横浜に行って何をするかと言えば、いつもいつもお買い物をするほどのお小遣いはないし、ひとりなので中華街で食事をすることもなく、だいたい同じような場所をウロウロ歩き回るだけなのですが、「そのうち泊まりたい」ホテルをチェックして歩くのもけっこう好きでした。 当時の横浜にはインターコンもロイヤルパークもパンパシフィックも、もちろんシェラトンもありませんでしたが、いちおうシティホテル系では、山下公園前には新館タワーができる前のニューグランド(ユーミンが披露宴をやったホテルということで私にとっては別格でした)とザ・ホテルヨコハマ(人呼んでザヨコ、その後二回名前が変わって、いまはホテルモントレ横浜になっています)、お隣にスターホテルができ、ニューグランドを挟んで意外とリーズナブルな穴場として評判の良かったメルパルクなどがありました。 また、中華街にホリデイ・イン(現ローズホテル横浜)ができましたが、ザヨコやホリデイ・インは、当時は本当にゴージャスに見えて、「泊まってみたいなぁ」とウットリしながらも、お手洗いを借りるのが精一杯でした。今思うと、どこもかなり客室が狭い感じ(ツインで20〜28平米程度)ですが、当時の日本のシティホテルとしては標準的な広さだったのかもしれません。 そう言えば、デビュー直後のサザンオールスターズがヨコハマをモチーフに歌う「メリケン情緒は涙のカラー」という曲の「 Bund バンド」という響きが、なんとなくノスタルジックで非常に気になっていたのもその頃でした。 いつものように山下公園界隈をウロウロ散策中に BUND HOTEL の看板発見! 感動のあまり、無謀にも「飛び込みで泊まってみるか!」と思いついて訪ねてみると、ライブか何かが開催されているようで、その雰囲気というか佇まいがとてもハマトラどころではなく、怖気づいて出てきてしまい、それ以降寄り付かなかった、という記憶があります。あの時思い切って泊まっておけばよかったな、と悔やまれます。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.66より ■お見合い定番ホテル 本当に「遠い思い出」っていう感じがします。実は記憶力が低下しているだけだったりして…。 八○年代後半、社会に出てしばらくたった私を襲った知り合いのオバサマ達からの恐怖の攻撃とは…。最近の若者にはあまり馴染みがないかもしれない「お見合い斡旋攻撃」です。 次から次に持ちこまれる、独身男性の「ピカピカの履歴書」と「コメント不能の写真」は、若き日の私を悩ませました。ボーイフレンドとのおつきあいや門限には非常に厳しかった母親公認の男性なんて、なんだかイヤ! でも、ちょっと興味がある。ということで何回か体験させてもらいました。 そして、その「ザ・お見合い」の舞台がほとんど決まって丸の内ホテルとパレスホテルでした。まず、待ち合わせは丸の内ホテルの喫茶コーナー。今のオアゾの場所にあった建て替え前の丸の内ホテルは開業大正十三年、今から二十年以上前でもかなり古びた感じで、しかし、それなりに常連風のお客様でいつもにぎわっていました。 休日の喫茶コーナーには、やはり常連と思われる「お見合い仲人」のオバサマが陣取って若者を待ち受けます。その日のお相手を紹介された私は、そこで大緊張のひとときを過ごすわけで、何回も通ったホテルなのにこぢんまりしたエントランスと喫茶テーブルのことしか覚えていません。 その後、本当にベタですが「じゃあ若い人たち二人で…」となって、場所を移す先がパレスホテルです。もちろん徒歩での移動です。 パレスホテル一階のお庭を眺めることのできるラウンジは、休日の午後ともなると、私たちと同じ境遇の若いカップルがたくさん。みんなお庭に向かって座っています。今思えば、テーブルの配置が完全にお見合いシフトだった気がします。広いラウンジには隣の声が聞こえないくらいテーブルが離されてセッティングされており、間には屏風のような衝立が置かれていました。思い出すと…、きゃー恥ずかしい! 原則として、次の約束はしないで別れます。お互い返事は仲人のオバサマに。奥ゆかしいですねぇ。さて、お見合いの結果は? 断ったり断られたり。そんなに簡単に決められるわけないじゃん!と言っている間に現在に至っています。またあの頃に戻って、丸の内ホテルのエントランスからやり直せたら、今ならきっともっと上手く立ち回れるのに、と思います。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.67より ■「インぺのドテで」 八○年代、東京に外資系ホテルが増えはじめ、それに伴って日系ホテルも少しずつスタイルを変化させました。 なかでも思い出深く衝撃的だったのが、帝国ホテルのインペリアルタワーの開業(八三年)。ホテルなのかオフィスビルなのかショッピングビルなのか、それまでのシティホテルの常識とは趣の異なった複合的な建物で、しかもものすごくリッチ(今風に言えばセレブ)な雰囲気。本当に今では想像もできないくらい、非常に敷居が高かったのです。 友だちとフラっと入ったタワーの何階かにあった喫茶店は、メニューを見てびっくり。すべてのドリンクの価格が四桁! 今ならホテルの飲み物としてどうってことのない値段ですが、二十五年前の私たちには腰を抜かすような価格設定でした。 大好きだった某グループサウンズのOB歌手が、談笑しながらお茶している。そんな様子を横目で見つつ、エライところに迷いこんだと興奮し、最も安い千百円のブレンドコーヒーをビビりながら注文したのを覚えています。 ただし、一階に比較的お手ごろな紅茶のおいしい喫茶店「サロンドテ」がありました。ここは「セレブ感は味わいたいがお金はない」我々の、ちょっと背伸びのかっこうの溜まり場となり、待ち合わせは「インぺのドテで」が合言葉。銀座に用事があってもなくても、しょっちゅう利用させていただきました。ちょっと時間ができた時、のぞいてみると、誰かしら知り合いがお茶をしている、といった感じでした。 もちろん、宿泊は予算オーバーでしたので、インペリアルタワーは喫茶だけの利用でした。 あれから時は流れて、ふりかえってみれば、帝国ホテルの利用は、パーティや結婚披露宴、待ち合わせの喫茶やバーやレストランばかり。ほんとうにたくさん利用をさせてもらったけれど、宿泊した記憶は実に二回のみ(いずれも本館)です。 あんなに輝いて見えたインペリアルタワーですが、現在は帝国ホテルの中でも比較的スタンダードなお部屋が用意され、私も気軽に利用できるようになりました。 大人になるって、うれしいような、淋しいような。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.68より ■「ジュリーも来た」 八○年代前半、日本人が行く海外リゾートと言えば、ハワイ・グアムあたりか、サーファーならバリか、という程度でしたが、知人に「今、フィリピンのリゾートが来てるよ。特にまだメジャーじゃないシコゴンなんてお勧め!」と言われ、じゃあ今のうちに行っとくか、とシコゴン島に行ってみました。 エルニドにリゾートがオープンして間もない頃、当然のことながらアマンなど影も形もない時代のフィリピンリゾートは、セブやダバオにいくつか有名ホテルがあるくらい。首都マニラは「陽が沈んだら女性は外出禁止」と言われるほど治安が悪く、少々躊躇しないでもなかったのですが、マニラからイロイロ〜ロハスを経由し、四人乗りのセスナでシコゴンリゾートへ。 やっとの思いで到着したのは、ハワイやグアムとは全く異なる素朴な島で、リゾートに点在するいくつかのコテージと、純白の砂・透き通る海・美しい珊瑚と熱帯魚しかない、まさに天然の楽園! 素晴らしい環境でした。当時はほとんどのリゾートにスパ等の人工的ヒーリングスペースはないわけですが、リゾートを取り巻く自然こそが、まさに「天然の癒し」。最近は何でも人工的でよく考えると興醒めです。 とは言っても、シコゴンのコテージのシャワーは塩分を含んでいて石鹸が使えず、初めて食べるインディカ米とヤシ油で調理されたフィリピン風味の食事は口に合わず、ヤモリが天井からボトっボトっと落ちてくるベッドでは熟睡できず、と悪条件が目白押し。楽園はけっこうツライな…。と思ったものでした。 何より驚いたのは、レセプションとレストラン以外のスタッフがすべて「子供」だったこと(ちょっと今だと考えられないですよね)。皆とっても可愛いくあどけなく、ハニカミながらゲストの世話をしてくれます。でも、私は年端もいかぬ幼な子にチップを渡して重い荷物を持たせる、などということができなくて、自分で荷物を運ぼうとしたところ、ガイドさんに「彼らの生活のためだから運ばせてください」と言われ、非常に戸惑ったことを覚えています。 今、シコゴンリゾートはありません。私が訪問した後まもなく、ダイナマイト漁などで世界一と言われた珊瑚が死滅し、美しい海が失われ、メジャーになる前に、楽園の座を手放すことになったのです。もったいないことするなぁ、とも思いますが、バカンスで贅沢に過ごす外国人のお世話をする子供達のことを思い出すと…なんだか気分は複雑です。 ちなみに、ガイドさんの「昨日迄ヒデキ西城ガイマシタ、先月ハ沢田研二ガキテタヨ」という言葉に「わー! ヒデキやジュリーも来るんだ!」と私は大感激したのでした。遠い昔の話です。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.70より ■涙のラッフルズ シンガポールは私のとても好きな国のひとつです。数え切れないくらい通っていますが、初めて訪れたのは、八四年でした。 当時のシンガポールは、今で言う「マリーナエリア」が開発される前で、観光客はオーチャード?スコッツ周辺のホテルを選ぶ事が多かったのですが、なるべく旅費を安く上げたい…という私に友人が薦めてくれたのが、ラッフルズでした。スイソテルもマリーナ・マンダリンもパンパシもオリエンタルもリッツカールトン・ミレニア・シンガポールもまだ何もないマリーナエリアにポツンと建つホテルでしたが、オーチャード界隈のホテルと比較するとかなり料金が低めでしたし、由緒正しい感じがして、「なんかよさそう」と思って宿泊決定。もう二十四年前ですが、スタンダードなお部屋が一泊七千円だったことを覚えています。 昔のラッフルズを、「現在のラッフルズの豪華さはないが、古き良き時代の面影を残すコロニアル風の素敵なホテルだった」と懐古する方もいらっしゃいますが、リノベーション直前の現実のラッフルズにそんな風情はなく、完全オープンエアのリゾート感覚廊下(これは今もそうですね)はともかくとして、ゲストルームはけっこう厳しいものがありました。 まず、エアコンなし(あの湿気ムンムンのシンガポールでです)、天井のシーリングファンはいつ落ちてきてもおかしくないような不自然な動き、水周りは「出ない・はけない」といった、要するにガタがきているハード面の厳しさに加え、サービス面も全然 NGでした。 ここに来たらやっぱりハイティーでしょう、とベタな考えでカフェに行くと、お客さんは私たち+α、といった閑散とした感じ。出てきた紅茶は、超ヌルいお湯にティーバッグが投げ込んであるだけ、といった投げやりな感じ。当然いくら待ってもお茶は出ず、「あの?、お湯が超ぬるいんですけども…」とボーイさんに言うと「それがどうした」といったやる気のない態度。 一事が万事こんな感じで、私のラッフルズ体験は思い出してもひどいことばかり。 ガッカリしてラッフルズをチェックアウトした後、旅行の後半を過ごすオーチャードのホテルに向かったのですが、その移動に利用したトライショーが意外にも最高?で、その後、私がシンガ・ジャンキーになるきっかけにもなったのでした。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.71より ■女二人旅の壁 前回に続き、八○年代前半のシンガポールの話です。今はほとんどがチャイナタウンなどの既定ルートを走るトライショー(自転車付の人力車)も、当時は観光客の移動の足として活躍していました。 ラッフルズからオーチャードのマンダリン(現メリタス・マンダリン)の移動にトライショーを使った私と友人。二人分のスーツケースも積んで、相当の距離の上り坂を走る(漕ぐ)オジさんは、物凄い汗でドロドロでしたが、清々しいそよ風を感じながら、ゆっくりシンガポールの町を辿って行く気分はとても素晴らしく、備え付けのカセットレコーダーから流れる日本語の歌謡曲もそれなりの風情がありました。 中華テイストのマンダリンは、ラッフルズに比べ設備も充実しており、海外デビューしたばかりの私にはもったいない感じ。 ただ、館内のレストランやバーはかなり気取っていて、非常に厳しいドレスコードがありました。私達が「そこそこオシャレなつもり」の服装でレストランに入ろうとしても「ちょっと!その格好じゃダメ」と言われ、入れてもらえません。しかたなくホテルの外に出れば、当時のオーチャード界隈には日本人女性観光客を目当てにたむろする地元の男たちがウロウロ。声をかけられしつこくつきまとわれます。なんか面倒臭いからホテルに戻ろう。 あっちもダメこっちもダメで、もう最後の手段、寝巻き代わりに持っていった派手なロングシャツをドレス風にアレンジし「これでどうだ」とホテルのバーへ。しかしここでは服装以外の関門が。「女性同士では入れません。男性とカップルでおいでください」だって…。 うそぉ、英国統治時代の名残かなんか知らないけど、ちょっと厳しすぎない? 私達のどちらかが男役やる? それともホテル前でたむろしている地元男性陣にエスコートをお願いする? どっちも無理です。 「日本から来たの!お願いだから入れて?!」と平身低頭で頼み込んだら、「じゃあ隅の席で、絶対に立たないでね」という条件付で入れてくれました。はー、やっと落ち着けた。シンガポールスリング片手に、中央のダンスフロアで踊る男女を見ながら「これが西洋の大人の世界かぁ(アジアだけど)…」と少し満足したのでした。可愛い思い出です。 最近は女性同士では入れてくれないバーはありませんが、先日、バンコクのバーで久しぶりにドレスコードに引っかかって入れてもらえませんでした。洗練された大人の夜の遊び方を未だに習得できていない私。進歩してないな…と大反省でした。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.72より ■ああ、想い人は・・・。 シンガポールから車でジョホール水道を渡り、マレー半島の東側を数十キロ行った所にあるデサルービーチ、八○年代初頭、デサルービューホテルという日系資本のホテルが開業しました(現在はありません)。 当時のデサルーは、間違っても「リゾート」という感じではない、海岸線とジャングルしかないようなところでしたが、そこに外国人観光客向けのホテルができ、シンガポールからのアクセスが良いので、街と海とのセットツアーで日本人もチラホラ出かけるようになりました。 私もシンガポール滞在中にデサルーを訪れ、「デサルービューホテル」で数日過ごしました。日系資本だけあって、鉄板焼きの日本食レストランもある、そこそこのホテルでした。 そのホテルの簡素なラウンジで、日本人である私と友人を見つけて、ピアノの生演奏を行っていたマレー人のおじさんが日本語で歌ってくれたのが「探偵物語」でした。その低音の歌声が素朴でセクシーで、今でも時々とても懐かしく思い出されます。 ところで、ちょうどその時期にデサルービーチではウインドサーフィンの国際大会が開催されており、私も友人と共に観戦に。そこでアジア勢でNo.1になったシンガポーリアンのウインドサーファーと、ちょっとしたきっかけで知り合いになりました(若い頃って、こういう事がときどき起こるんですよね…フフ?)。サルタンの見守る表彰式にも、その後の打ち上げにも一緒に参加させてもらい、すっかり気分はサーファーの彼女だった私。 当然、また今度シンガポールで会う約束をして、一年後に再会しました。妹と友人を引き連れ、格安ツアーで乗り込んだのです。チャンギ空港に迎えに来てくれた彼は、ツアーガイドさんに「アナタの彼氏ハンサムネ」と言われるくらいカッコ良く、私は有頂天。 しかしその夜、彼の友達も含めて皆で行ったオーチャードのディスコで彼に見せられたのは、可愛い二人の子供の写真。そうなんです。彼は家族持ちだった…。 一年間、遠距離恋愛のつもりでルンルンしていたのは私だけ。彼は単に日本人の友達ができた、くらいの感じだったようです。妹と友人の手前、えらく恥ずかしい思いをしました。これぞまさに、My Sweet & Sour Memoriesです。 後日、自宅のテレビで「ロス五輪の開会式での彼の姿(ボードセイリング、シンガポール代表)」を見ました。相変わらず素敵でした。今、何をしているのでしょうか…。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.73より ■離島の青春 八○年代前半、竹芝桟橋から東海汽船で行く「伊豆七島への旅」が若者の間でちょっとしたブームになりました。 と言っても、実態は中高生が「新島でひと夏の火遊びをする」という話で、私は年齢的に対象外でしたが、九月が始まり、子供がいなくなる頃を見計らって、その「新島」とやらの視察に出かけました。 新島での宿泊は原則として「民宿」です。私の泊まった民宿にいたのは、東京から釣りに来ているオジサンや、長期滞在しているプロサーファー、夏の期間だけ民宿でバイトしている大学生など。すでに中高生は帰った後で、人影のほとんどない夏の終わりの新島は静かでのどかで切なくなるほど。新東京百景「羽伏浦」の海はそれはそれは美しく、離島デビューの私には感動的なブルーでした。 ただし、離島の旅も民宿泊まりも始めての私には、新島は新鮮というより驚きの連続。 まず、新島の名産「くさや」。島全体にそこはかとなく「くさやの臭い」が漂っており、そのせいか、島は大量のハエの生息地となっていました。民宿の食卓では、食事の用意ができるとハエよけの新聞紙を料理の上に広げますので、自分の席に座り、新聞紙を取り、お茶碗を持つ手でハエをはらいながら食事をしなければなりません。 また、襖一枚隔てて別のお客さんが寝ているという、プライバシー保護の全くないタイプの民宿だったので、夜中、ふと起きると、大学生のバイト君が隣に寝ていて、超ビックリ! などということもありました(リゾートホテルで目が覚めて隣にルームサービスの人が寝てたりしたら、訴訟沙汰ですが…その時は怒って追い出して、終わりでした)。 ところで、新島というと思い出すのが、イーグルスの「Desperado」。 羽伏浦で出会ったひとりの若者。「新島の海って本当にきれいですね」という私に「ここに来る直前まで暮らしていたカリブの島の海の方がもっときれいだったな(今思えばクサイ台詞だ)」なんてことを言う男。その彼が乗っていたボロいライトバンのカセットデッキから流れていたのがこの曲でした。 初めて聴いたイーグルス、お決まりの旅先での恋心。連絡先くらい聞いておくんだったと、半年くらい引きずりました。 ちなみに、往路の船酔いに懲りて帰りは調布飛行場までセスナを使用しました。早いし、料金もそれほど高くないので、伊豆諸島へはセスナがお勧めです。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.74より ■清里のペンション 七○年代後半に大ヒットした、狩人「あずさ2号」。 ちょうどその頃から八○年代にかけて、ペンションが大ブームを巻き起こしました。民宿とホテルの中間のような手軽でオシャレな感じが若者を中心に大人気に。お風呂が共同か否かで違いましたが、当時一泊二食付で一人五千円前後という価格設定も魅力的でした。 高校卒業記念に、どこかに旅行に行きたかった私と友人は、ブームの火付け役となった清里のペンションに行くことに決め、どうせだったら「新宿発、8時ちょうどの『あずさ2号』で、高校時代に片思いだった男子から旅立とう!」と、大人の女を気取った旅を計画しました(ただし、残念ながら「8時ちょうどのあずさ2号」は国鉄のダイヤ改正で、この時すでに存在せず)。 訪れたペンションは、ウッディでモダン。ドライフラワーと生成のリネン類、想像通りのロハスな佇まいで感激でしたが、何よりテンションが上がったのは、ゲスト用の駐車場に、真っ赤なフェアレディZのオープンカーが停まっていたこと。 「こんな車に乗ってる人も来てるんだ!」 オーガニック食材での夕食が終わると、オーナーや他のゲストと触れ合う機会もあります。そこで関西の医大生二人組と知り合い、食後のひと時を彼らの部屋でゲームなどをして過ごすことに。そして「明日は僕らの車でドライブに行かない?」と誘われました。 そうです。何を隠そう、彼らこそが、赤いフェアレディZの持ち主だったのです。興奮気味にOKを出して部屋へもどった私たち。 「どうする、明日。あの車、ツーシーターでしょ? 誰と誰が乗るの? あぶれた二人は歩きですか?ペンションのチャリですかぁ?」などと盛り上がってなかなか寝付けず。 明けて翌朝、緊張気味の朝食。ダイニングに彼らの姿はありません。夕べはけっこうお酒も飲んでいたみたいだから、まだ寝てるのかな。しかしチェックアウトの時間が近づいてきても彼らの気配がない。なんかおかしいな、と不安になって駐車場に目をやると、あれ? 赤いZもないじゃん!! ちょっとどこかに買出しに行っているだけかな…。って、違います。既に帰ってしまっていたのです。 やっぱりねぇ。そもそもあの車に四人は乗れないし。夕べの誘いは酒の上の戯言だったんだと、純情な娘たちはやっと気づいたのでした。 その後、こうなったら意地でもドライブしてやろうと、私たちは大枚叩いてタクシーで小淵沢をドライブしました。タクシーの方が安全だし、運転手さんの案内はわかりやすいし、これで良かったんだ! と、今でも確信しています。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.75より ■湾岸ブーム 「東京ららばい」ヒットの数年後、ウォーターフロントブームが到来します。 八○年代初頭、倉庫と木材置場くらいしかなかった東京湾岸芝浦エリアに、廃倉庫を活用したディスコの進化形(クラブの原型)のようなものや、カフェバーといわれる新しいタイプの飲み屋が少しずつでき始めました。 それまで「芝浦」といえば芝浦工業大学くらいしか浮かばなかったのですが、「インクスティック芝浦ファクトリー」とか「東京ベイゴーゴー」「TANGO」など、当時のオシャレな若者御用達のお店の出現に、私も埼玉から無理して通いました。 周囲には何もない場所にひっそりと佇むようなお店が多く、「窓からの景色は首都高を行きかう車のみ」みたいなカフェバーで景色酔いして気持ち悪くなりながらも「これこそが最先端なんだ!」と自分に言い聞かせて頑張っていました。 唯一難点として、とにかくこのエリアは交通の便が悪く、公共交通機関で埼玉まで帰る私は、いつも「もうひと盛り上がりしたい」という思いに後ろ髪を引かれながら帰宅しなくてはなりませんでした。 対岸の台場も、当時は単なる砲台跡公園だったのですが、少しずつウィンドサーファーが出没しだし、なんとなくカッコいいエリアになりつつありました。特に台場サイドから見る東京の夜景は(東京タワーのライトアップはない時代でしたが)とても美しく本当に素敵でしたが、こちらはさらに不便。それに夜景を見た後、電車で帰るのも味気ない。いっそ帰らないで泊まりたい! この辺にも気の利いたホテルができればいいのに! でもこんなところにホテルが建つわけないか、などと本気で思っていたものです。 が、その後、お台場海浜公園とその周辺の開発と共に、天王洲アイルができ、レインボーブリッジ・ゆりかもめが開通し、インターコン東京ベイができ、フジテレビが引っ越してきて、ホテル日航東京・メリディアン東京ができ、あれよあれよという間に多数のレジャー施設ができました。 そしてこの信じられない夢のような展開で、一部の若者のとっておきのオシャレスポットだったはずのウォーターフロントは、家族連れや観光客でごった返す一大レジャースポットとなりました。もう本当に便利で賑やか。芝浦ふ頭だってお台場だって、日帰りよし、泊まってもよし、誰でも気軽に楽しめます! でも、これが私の待ち望んだものだったのかというと…。確かに望みどおりホテルはたくさんできたけれど、なんか違う。めちゃくちゃ不便で殺風景だった頃の湾岸エリアが心から懐かしいと思ってしまう。こういう私って我が儘でしょうか…。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.76より ■あの頃のモルディブ 「Saving all my love for you」などホイットニーヒューストンの曲は、八○年代リゾートでフィリピンバンドによく歌われていました。 バブルを迎える頃、何か「トレンディ」な趣味を持ちたい、という思いから、スキューバダイビングを始めました。泳ぎも海も苦手だったのですが、初めて行ったモルディブでの体験ダイブで「地上からたった十メートル潜るだけで、こんな龍宮城みたいな世界があるんだ!」と感動し、スキューバとモルディブにハマりました。 今でこそモルディブには、フォーシーズンズだ、ワンアンドオンリーだと、ゴージャスなリゾートが目白押しですが、私が通い始めた二十数年前のモルディブは、バンドスアイランド、クルンバビレッジなどに加え、欧州やインド資本の素朴なリゾートが、空港のある島の周辺を中心にパラパラと開発されている程度でした。 旅行会社のパンフレットにある「シャワーは塩水なので専用の石鹸を持って行くこと」とか「国土が珊瑚なので野菜は全て輸入品です。レストランで出される野菜は絶対残さないこと」といった数々の注意書きに不安を煽られましたが、「なぜ塩辛いのか」と不思議に思うくらい透きとおったエメラルドグリーンの海や、一日中、裸足ですごせる気持ちよいサンドカーペット、純粋な島民などに触れると多少の不便は逆にとても大切に思えました。 モルディブの海は魚影が濃いのでダイビングも非常に楽しいのですが、それは裏返せば、流れが速く難易度の高いダイビングスポットが多いということです。 水の苦手な私にとって、そこで力強く導き、サポートしてくれるダイビングガイドは頼もしい命綱。しかも、ちょっとカッコ良い男性ガイドだったりすると、完全に舞い上がって浮き足立ち、結果として注意散漫、沖に流され、他のダイバーに大迷惑をかけることも…。自分の体だけでなく「淡い恋心」も海の藻屑となって流されてしまうのでした。 ちなみに、モルディブを訪れるゲストはドイツ人を中心としたヨーロッパ人ファミリーやカップルが多く、その次が日本からのハネムーナーでしたので、若い女性一人旅の私は、いつもスタッフにとてもよくしてもらいました。時にはいきなり結婚を迫られることも!「敬虔なイスラム教徒のモルディブ人」と結婚して漁民の島で男性優位の生活なんて…と苦笑いしてお断りしていましたが、今ふりかえれば、私の人生に於いて「プロポーズを受ける」という極めて稀少かつ貴重な体験だったんだな、と感慨深い気分になります。今行っても…ダメでしょうね、恐らく。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.77より ■旅先の男性選び アンルイスの「甘い予感」はユーミン作の名曲。これを聴けばサーファーガールになりきれました。 サーファーブームが盛り上がっていた八○年はじめ、若者は皆ビッグウェイブを求めバリ島に向かいました。そしてサーファーだった私もちょこっと便乗してバリ島へ。当時のバリは、夕日の美しいクタビーチとヨーロッパ人が好む(と言われた)サヌールビーチにリゾートホテルが集まっており、老舗ホテルではオベロイなどがありましたが、若いサーファー達は「ロスメン」と呼ばれるB&Bと民宿の中間みたいな宿をよく利用していました。 一口にロスメンと言ってもピンキリですが、一人一泊二、三百円から泊まれたので貧乏学生などに人気でした。ただ、エアコンなし・水シャワー・虫いっぱい、など悪条件も当たり前で、「それもまた楽しい」と思える人のみ宿泊可能でした。 もちろん私と友人は、ロスメンなどトンでもない!ということで、インドネシアの政府プロジェクトとしてリゾート開発が始まったヌサドゥア地区に初めてできた豪華リゾートヌサドゥア・ビーチ・ホテルに宿泊。今となってはどこにでもある一般的なホテルですが、当時は豪州・欧米の富裕層ツアー客とか、航空会社のクルーなどがゲストの中心。加えてジャカルタ駐在の日系ビジネスマンファミリーなども来ていました。 しかし、旅行会社から「ホテルの客室でスーツケースが消えた」とか「現地ツアーガイドに気をつけろ」などというバリの怖い事例や注意事項を聞かされ、警戒心は最高モード。案の定、若造ツアーガイドが「夕方涼しくなったら僕のバイクで遊びに行かない?」なんて誘ってきます。しかも「安くしとくよ」などと言います。行くわけないじゃん、冗談じゃない。私たちは日本人と遊びます!! という訳で、週末、家族をジャカルタに残してバリの休日を楽しんでいる某日系商社マンの皆さんとお近づきになり、楽しくテニスをしたり食事をしたり。なにしろ堪能なインドネシア語でホテルのスタッフにあれこれ注文・指示を出す彼等の姿は、治安のあまりよくなかったバリ島で本当に頼りになるカッコ良さ。きっとお仕事もバリバリこなすエリートビジネスマンなのだろうな、と大人の魅力に心を奪われる私達。後日、東京でお目にかかったら、普通のサラリーマンでしたけど…。 ちなみに、お土産に買った「ガラム」を職場のお茶タイムに自慢げに取り出して火をつけたところ、その強烈な匂いに職場の全員が一斉にこっちを振り向く、という事態になりました。 おかしいな、バリのビーチでは素敵な香りだと思ったのに、池袋で嗅ぐと単なる異臭。旅先ではお土産選びも男性選びも判断を間違うケースって多いですね…。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.78より ■めくるめく豪華船旅 一九五○年代の米国映画「慕情」の主題歌は、私の大切な旅の思い出の曲です。 一昨年、最終航海を終えた「クイーンエリザベス2世号(QE2)」。良くも悪くも「コテコテの欧米風豪華客船の旅」の象徴として、長きに渡り世界のクルーズ界に君臨していた船ですが、八○年代最後の年に私も乗船する機会がありました。 晴海で年末に乗船し、九○年の元旦を台湾で迎え、香港に寄って帰ってくる十二日間位の旅でした。私の部屋は船底に近い丸窓一個の部屋で、使えるレストランも低いランクのものでしたが、ディナーはフォーマルかセミフォーマルを求められ、夜毎催されるパーティ等の「欧米風ゴージャス感」に、若い私はちょっと有頂天状態でした。 乗客はお年寄りばかりかと思えば案外そうでもなく、富裕層のファミリーとか、企業の招待客、他に船内イベントを仕切っている広告代理店の社員など様々。当然、十日間以上も同じ空間で過ごすので、大量にいる乗組員の皆様も含め、お決まりの「出会い」などもあったわけですが、結局今でも忘れられない思い出として私の心に残っているのは、若者ではなく、一人の日本人の老人です。 ある夜の夕食後、バーでくつろいでいると、ピアノの弾き語りをしている白人男性が困った顔で小さなメモを持って近づいてきます。見るとメモには漢字で「慕情」の文字が。隅の席を指差し、あの老人男性にリクエストされたが、意味がわからないとのこと。 慕情?……ああそうか、この船は香港に向かっているから、きっと香港を舞台にした有名な映画「慕情」の主題歌を聞きたいんだな、と察した私は、すかさず「Love is a many?」と口ずさみました。あぁ、と理解したシンガーはピアノに戻って「慕情」を演奏し始めました。 その後、このリクエストをした老人を船内でしばしば見かけましたが、いつも一人なので、私と友人は夜のパーティに一緒に参加しませんか、と彼を誘い、少しずつ世間話もするようになりました。 彼は、『長い間客船のボイラーマンをしていて、いつも船底にいたこと』『定年退職したら、いつか奥様と一緒に、客として船に乗ってみたいと思っていたこと』『その機会もないまま奥様を亡くしたこと』『QE2が日本に来たので、今回が最後のチャンスだと思い切って乗ったこと』『客室は船底に限りなく近い部屋だが、でも本当に夢が叶ったと思っていること』などを話してくれました。なんだか、胸がいっぱいになるような話です。仕事が終わった乗組員達と夜中にデートしようと企んでいる自分たちの不純さを恥じた瞬間でした。 あれから二十年、あの老人はどうしているでしょう。まだご健在であれば、また正装して一緒にパーティに出かけてみたい。随分大人になった私を見てもらいたいと思います。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.80より ■私のホテル原体験 チェックアウトは出来ても、ホテルからは抜け出せない…そういうことなんですよね。イーグルスの「ホテルカリフォルニア」。 八○年代、青春真っ只中だった私の「ホテルにまつわる思い出」はいろいろありましたが、今ふりかえると、ホテルというものに興味を持ち、自分なりに使いこなすようになっていくきっかけとなった「原体験」は、意外な感じもしますがホテルエドモント(現ホテルメトロポリタンエドモント)でした。 エドモントは、国鉄系のホテルとして八五年に開業しましたが、開業当時は法人顧客向けのサービスがとても充実しており、私の勤務先も法人会員となっていました。人事部でメンバーカードを借りると、格安で宿泊できるわ、レストランや会議室は大幅割引きされるわで、カードは打ち出の小槌感覚でとても便利でした。 また、メインダイニング「フォーグレイン」の中村勝広シェフは日本人初のミシュランの星を持つシェフということで、「食」の部分でも興味をそそられ、新入社員にも関らず、私は頻繁にメンバーカードを借りてエドモントを活用しました。同僚の誕生会を開いたり、広い和室を借りて仲間同士で泊まりで飲みあかしたり。 なかでも記憶に残るのが、身内の結婚に係わる一連の行事を、私が両親に頼んでエドモントで取り仕切らせてもらったこと。バンケット用個室でフォーグレインの料理をいただきながら両家の顔合わせ、同様の個室での結納式、結婚式当日の前後には地方から上京する親戚の宿泊の世話、等々。 なぜそんなことをしたのか理由はわからないのですが、自分のことでもないのに率先して緊張しながらすべての手配を行いました。 「お部屋が素敵」「落ち着いていて静か」「スタッフの対応が素晴らしい」「お食事が美味しい」といった言葉に心から喜び、また、瀬戸内海の小島から初めて東京に来たという親戚が「バスルームを水浸しにした」「下着のまま廊下に閉め出された」といったトラブルにも対応し、すべてが終わって皆が去った後、何とも言えぬ充実感と達成感を感じました。「この感じは何だろう…」当時はわからなかったのですが、それがホテルへの執着の第一歩だったということに、後年気がつくわけです。 ホテルの楽しみ方は、自分が泊まったり食べたりするだけではない、ホテルを利用して人をもてなす喜びもあります。 実はかなり高度な楽しみ方を若い頃から実感していた、ということになるのでしょうか。理屈ではないこの感覚、ホテル好きの方にはおわかりいただけると思います。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.81より ■■■'90s■■■ ■あのままでいて欲しい。 九○年代に入り、バブル経済の崩壊と共に、国内ホテル遊びへの情熱は急速に冷めてしまいました。あんなに憧れていた赤坂プリンスホテルを見ても無感動。リゾート開発で盛り上がった地方のリゾートホテルの豪華施設も、旬が過ぎれば単に成金趣味の悪ふざけにしか見えません。それに何より周囲の人間も痛手を食らった人たちが多く、スポンサー的な存在も激減してしまいました。 また、個人的にはこの時期は公私共に忙しく、あまり遊び歩く時間がなかったので、バブル時代に仕込んだ唯一の遺産「ダイビングのライセンス」を持って年に一、二回、安近短の海外へダイビング旅行に行くのが精一杯でした。国内でダイビングをすると非常に高くついたので低価格で気軽な海外ダイビングは、貧乏OLのささやかなお楽しみでした。 行先はサイパン・ロタ・セブなど。このあたりは世界でも有数の透明度を誇る美しい海があるのに、ダイビングはルールもいい加減だし、ガイドはアバウトなので実にお気楽。ひなびたリゾートに泊まりながら、朝起きて一本、ランチを食べて午後に一本、チンタラ潜るのは最高です。 なかでも印象深いのはセブから船で一時間半程のボホール島のボホール・ビーチクラブ。どこで遭遇しても従業員は必ずゲストに「ウェルカム トゥ ボホール・ビーチクラ?ブ」と言います。一応リゾートホテルとしての教育の賜物でしょうか。最初は感激しましたが、回が重なって来るとかなりウザい。 夕食の時はギターを抱えたオッサントリオがチップを渡すまで延々テーブルの前で唄い続けます。ロメオというネームプレートを付けたイケメンのボーイが女性ゲストに向けて終始流し目でセクシービームを送って来たり(うれしかったけど)、ネイルケア担当のヤスミンという女の子が「甘皮を取る」と言って私の両手両足の爪の周りを血だらけにしたり…。 正直ハチャメチャなホテルなのですが、めちゃくちゃ居心地が良くくつろげるのです。その証拠にこうして今でもスタッフの名前を覚えているくらいです。素朴で滑稽で本当に素晴らしい。すべてを許すことができる場所でした。 今だったらあれこれクレーム言っちゃうんだろうな…。年を取って口うるさくなるのって嫌だわ…。でも、ボホール・ビーチクラブはあのままでいてくれたらうれしい、と思います。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.82より ■亡き母とのハワイ旅行 2011年3月、途轍もない災害が日本を襲いました。あの日から、すべての人々が本当にいろいろなことを感じ、考え、「家族の絆」についても深く思いを巡らせたと思います。 私は母を十数年前に病気で亡くしました。突然の死というわけではなく、それなりに看病もできましたが、それでも娘として生前母に何もしてあげられなかったと、後悔し、嘆き、「母との絆」を心から実感しました。なぜか今、母と行った唯一の海外旅行がすごく思い出されます。 ハネムーンまでは絶対に行かない、と決めていたハワイなのに、なかなか行く機会がなく、一生行けないかも…という焦りから結局なし崩しに行ってしまった後は、弾みがついて何回か立て続けにハワイ旅行をしました。最初は友人とでしたが二回目は両親と三人で出かけました。 私自身は海外旅行が好きでしたので何度も両親を誘いましたが、節約・節約の古い世代の質素な母に「私達はいいよ、もったいない」と断られ続けていたのを、とにかく行こうと強引に誘い、両親にとっては初めての、そして母にとっては最後の海外旅行になりました。 ノースウエスト航空で行く四泊六日のパッケージ旅行、ホテルは少し奮発してハレクラニのダイヤモンドヘッドの見えるお部屋(三人一部屋)。成田の離陸で、気圧の変化に対応できず耳が痛くなって大騒ぎし、機内食で「ビーフ」を頼んだ母の座席に、CAから「缶ビール」がポンと投げられたあたりから、この旅行は珍道中になりそうだと思ったのですが、案の定、行く先々でモタつく両親。 ホテルの朝食ビュッフェでは、何を取っていいか分らずパンとフルーツしか食べない父をあざ笑う母。一方、オムレツの具を「これは何かしら?」と一つ一つ指差しながらチェックし、気がつくとすべての具を卵に入れられてしまった母。 プールサイドのデッキチェアをセットしてくれたホテルスタッフに、なかなかチップを渡せない父を睨む母。マウイ島へのオプショナルツアーで、トイレを優先するあまりほとんど観光ができない母。自分の人生を大きく変えることになった真珠湾を見学し、涙ぐんでいた母。黙り込んでいた父…。 本当に楽しんでもらえたかどうか分らなかったのですが、亡くなる前、母が人生の楽しかった思い出として「ハワイに行けたこと!」をいつも挙げてくれていたのが、今となっては私の救いです。一生懸命連れて行った私に気を使ってくれていたのでしょうか。きっとそうですよね。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.85より ■「想定外」の出会い キャロル・キングの名曲に「君の友達」というのがありますが、旅先のホテルで一生の友人に出会うこともあるんです。 あわよくば…と多少アバンチュール的なことを期待しながら旅行に出かけていた二十代と違い、三十代を迎えた九○年代の旅は、たとえばローカルフードを楽しむであったり、ダイビングやゴルフなどのスポーツを楽しむであったり、いたって健全なものへと移行。行った先での人々との出会いもトキメキ重視から心和む友好関係重視へとシフトし、家族ぐるみの長いおつきあいも生まれました。なかでもマレーシアのランカウイ島で出会った友人とはもう十五年以上の仲になります。 初めてのランカウイで宿泊したシェラトン・ペルダナ(現在のウェスティン・ランカウイ)のフィットネススタッフだったJ君とは、ホテルのジムで知り合いました。ランカウイ島が気に入り、二度三度と訪ねるうちに「あ、また来たの?」という感じでとても親しくなり、彼が人事異動でシェラトン・ランカウイ・ビーチリゾートに移ったと聞けば、次はそちらに泊まりに行き、彼の自宅にお邪魔するようにもなりました。最初はお腹が大きかった彼の新妻は、次に行った時は赤ちゃんを抱え、次に行ったらまたお腹が大きく、結局四人の女の子のお母さんになりました。もうこうなると、リゾートに行きたいのか、子供の成長を見に行きたいのか、なんだか分からなくなってきます。 ムスリムの彼等の生活は、当初どんなものか興味津々だったのですが、実は我々とほぼ変わらない日常を送っています。が、一緒に湖に泳ぎに行って、奥様が「トゥドゥン」というマレーシアの女性が頭に巻いている被り物を取った時は、何か見てはいけないものを見た感じでドキドキしました。ちなみに彼女は天然パーマのショートヘアでした。 その後、一家はバターワース近くの町に移り住み、J君はレジャー関連の会社を立ち上げ独立。私がクアラルンプールに行った時など、家族でクアラまで駆けつけて、郊外のサテの有名なマーケットに連れて行ってくれたりします。すっかり中年になったJ君ですが、子供達も成長し会社の経営も順調な様子です。ぜひ一度彼の会社のツアーでジャングル・トレッキングをしてみたいと思っています。 初めて出会ったあの時、一人のホテルスタッフとこんなに長い友好関係が築けるなんて想像もしなかった、素晴らしい「想定外」。でも実は「シェラトン万歳」みたいに言いながらJ君に内緒でダタイに泊まりに行ったりもしていました。私もホテルジャンキーの端くれですから。J君、そのくらいの浮気は許してくれると思います。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.86より ■海辺の月曜日 「It's a small world」一九五○年代以降の生まれで、この歌を知らない日本人はたぶんいないと思います。 今でこそ東京ディズニーリゾートにはディズニーホテルズなる三つのホテル、アンバサダー・ミラコスタ・ディズニーLホテルが君臨し、いわゆるオフィシャルホテルと呼ばれる周辺ホテルは水をあけられている感がありますが、八○年代後半から九○年代にかけては、そのオフィシャルホテルが舞浜を制圧してました。特に第一ホテル(現ホテルオークラ東京ベイ)・ヒルトン・シェラトンの三つはやや抜けた位置づけで輝いていました。 ディズニーランド(TDL)は日帰りでも十分楽しめましたが、やはりオフィシャルホテルに泊まり、二日間に渡ってTDLを楽しむというのが家族連れにもカップルにも憧れのプラン。お父さんは子供に威厳を保て、子供達は友達に自慢できる。男子は彼女に合格点をもらえたのでした。 また、TDLにまったく関係のない分野でも、オフィシャルホテルは威張りの効く舞台。当時、一番価格設定が高く、建物のレイアウトも威風堂々と厳かだった第一ホテルで、バブル末期の華々しい結婚披露宴を行った友人は、アラサーの勝ち組として、誇らしげに私たちにブーケを投げつけて嫁に行きました。 ただし、実際のところ週末や夏休みなどは価格はバカ高いのにどのホテルもお子様連れでごった返していて、興醒めの部分は否めません。逆に土日や連休を外すと驚くほど空いていて価格もガクーンと落ちるのがこの種類のホテルです。あの頃、TDLを一緒に楽しむ相手にも、ブーケトスの機会にも恵まれなかった私がハマっていた、ちょっと意外なホテルの過ごし方をご紹介すると…。 シーズンオフの月曜日に休みを取って日曜日にシェラトンにチェックイン。夕方から潮が引くように人が減っていくTDL周辺は宴の後の切なさがしんみり心地よい。お部屋はTDLビューではなくオーシャンビュー指定。 実は現在のディズニーホテルズと違いオフィシャルホテルはすべて海沿いのロケーション。中でもシェラトンはTDLの入口から一番遠い静かな場所にあり、部屋から見える海はTDLを全く想像させない静かなグレーの海。お台場や横浜の海とは違う非常に殺風景な海。でもその地味さに不思議と心が落ち着くのです。クラブフロアに泊まれば、当時ラウンジは二十四時間利用できたので夜遅くまでゆっくり寛げました。 都心から三十分で味わえる少し孤独な海辺の月曜日。TDLに行かないTDLオフィシャルホテルのこんな使い方、けっこう気に入っていました。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.87より ■ひとり旅の女の気遣い 「けんかをやめて」河合奈保子の歌です。旅先の喧嘩、本人たちは良くても周りが迷惑。楽しい旅行が台無しになります。 二十年前のロタ島、今もそうかもしれませんが、当時は本当に何もない、観光客もほとんどいない、ただゆるい空気の中でのんびりするだけの島。女一人旅ですがダイビングが目的の旅行なので、ホテルも厳選せず、ダイビング専門旅行会社の言うままに、ココナッツビレッジでもロタ・ホテルでもない、名前も思い出せないプレハブ風コテージのリゾート(?)に宿泊。じゃあバリバリのダイバーが集う所か、というとそうでもなく、私以外のゲストは素人ダイバーが数人。 部屋は質素で小さなベッドと大きなエアコンのみ。バスルームがない! と思ったら、いわゆる日本のアパートなどで使われる三点ユニットバスが、コテージの壁にポコっと外付けされていて衝撃的。激しい騒音を轟かせるくせに効きの悪いエアコンが侘しさを盛り上げます。食事に関しては推して知るべし。近所に美味しいレストランも見当たりません。ま、それでもダイビングが楽しければいいか、ダイビング目的の旅行ですから。 ダイビングのお世話をしてくれるのはリゾートに常駐の男女二名の日本人ガイド。ミクロネシアあたりのリゾートによくいるタイプのチャラっとした、でも傍で見ると案外老けてる男性ガイドとこちらもリゾートによくいる男勝りの美人、でも訳あって日本を脱出しました風の女性ガイド。二人は単なるガイド同士の関係か、成り行きで付き合ってるとか、まさか夫婦か!私の好奇心を掻き立てます。 なぜならこの二人、四六時中「喧嘩」なのです。別々にいる時はいずれも好感の持てるガイドなのですが、二人揃うと雰囲気が悪い悪い。こういうのよく街の定食屋なんかでもありませんか。厨房の亭主とホールの奥さんが不機嫌に言い合っているようなの。 でも、逃げ場のない孤立したリゾートで、この二人はとても迷惑です。海はとてつもなく美しく、ロタホールは神秘的。適度に暢気なダイビングは実に素晴らしいのですが、ガイド二人の緊張感にゲストは気を使いっぱなし。おいおい、一人旅の女に気を使わすなよ。普通逆でしょ。私が気を使ってもらうんじゃありません? これってクラブメッドなどでも時々見られた現象ですが、ゲストの前では現地スタッフ同士は仲良く振舞い(表面だけでも)、我々の「束の間の休暇」を気持ち良く演出していただかなくては。それがプロですよね。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.Vol.88 2011年10月発行号より ■ホテルで箱根駅伝 お正月の過ごし方はいろいろありますが、私の場合、十数年前、母が亡くなった翌年に父と二人でパレスホテルのお正月プランを利用してから、しばしば首都圏のホテルで過ごします。喪中のお正月は年賀状もお客様も来ないし、おせち料理を用意する母もいない。いっそホテルで過ごしちゃおう、というのが最初の動機でした。 ホテルが用意している年末年始の「お正月プラン」は、これでもかこれでもかとイベントてんこ盛りのものから、希望者には年越しそばとおせち料理を提供します程度のあっさりしたものまで多様ですが、パレスホテルは平均的なプランだったと思います。いつも制服姿を見慣れている女性スタッフが着物姿で登場したり、ホテルの送迎バスで近くの神社へ初詣に行ったり、上げ膳据え膳の年末年始は想像以上に心地よく、父と私はすっかり病みつきになりました。年賀状が少し気になる次の年以降も、十月に入った辺りから「さて今年はどこのホテルに行こうかな」。毎年同じホテルで常連になるも良し、違うホテルで一味違うサービスを味わうも良し。 私個人的には「お子様客の少ない」あっさり系が好みです。父が次第に行けなくなり、私一人で利用するようになってからは、六本木・新宿のハイアットや、コンラッド東京でお正月を過ごすのがお気に入り。特にコンラッドはおせち料理を元旦だけでなく二日以降も出してくれるので、年越しで夜更かしして元旦の朝は食欲がない場合、無理しておせちを食べなくても翌日食べられる、というサービスもありました。(今はどうか、わかりません) 三が日をたっぷりホテルで過ごす時は、決まってルームサービスのお茶を飲みながら、部屋のテレビで箱根駅伝をじっくり鑑賞します。某新宿のホテルで、お茶を運んできたスタッフがテレビをちらちら見ているのに気づきました。聞けば新入社員で、去年まで今画面に映っている一位の大学の選手として箱根を走っていたとのこと。 まあ大変! OBは現地に応援に行かなきゃだめじゃない! いや仕事ですから…と、彼。でもとても気になっている様子なので「じゃあ、ここで一緒に見て行きません?」と、誘ってみたところ…、もちろんサイン伝票を手に、笑顔のまま立ち去って行かれました。あー行っちゃったー。でも手軽で充実、お正月のホテルはやっぱり楽しい! 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.Vol.89 2011年12月発行号より ■「イイ女」気分の夜 NYだけじゃない。シンガポールの夜景にもボビー・コールドウェルはピッタリだと思いました。 九○年代後半、学生時代の友人達が仕事や家庭の都合でシンガポールに集結していた関係で、年間四〜五回のペースでシンガポールに足を運んでいました。 シンガポールはマリーナエリアの開発が進み、観光と貿易の島からアジアの金融・経済の一大拠点に変化しつつある頃で、街中では観光客よりむしろ外国人ビジネスマンを多く見かけるようになっていました。 私も日本のサラリーマンの端くれとして、ホテルはグランドハイアットやウェスティンプラザ(現フェアモント・シンガポール)を定宿とし、朝食は欧米系ビジネスマン達の隣の席でパワーブレックファストの雰囲気だけ味わい、昼間はショッピングに勤しんでも、夜は当時最もイケていたクラブストリート界隈に繰り出していました。 クラブストリートは、現地在住の友人のご主人のお勧めスポット。シンガポールは有名なフレンチレストランであってもフロアの隅でせいろがシューっと蒸気を噴出しているような店が多かったのですが、クラブストリートには、イタリアンもフレンチもタイ料理もベトナム料理もどれも洗練されたメニューと気取った佇まいの素敵なお店ばかり。来店客は世界各国から集まってきた若きビジネスマンが多く、ストライプのシャツに趣味の良いネクタイ姿で毎晩お洒落に盛り上がっていました。 主婦オーラ全開の友人と筋金入りジャパニーズOLの私の組み合せは、傍目には単なる観光客だったかもしれませんが、ほんのひととき、友人は夫や子供を忘れ、私はしがないOL生活を忘れ、やり手ビジネスマンや地元セレブに混じってスノッブなシンガポールの夜にシャンパングラスを傾ける。アー最高! 完全にイイ女風。 ホテルに戻ってもクラブストリートの興奮冷めやらず…。ホテルのバーでもう一杯やろうかな。そうだ、別の友人に紹介してもらったラッフルズプレイスの金融会社で働く彼を誘ってみよう。シンガポールに来たらいつでも声かけて、なんて言ってたもんな。勢いで電話をしてみると、「え? 今から? もう遅いから寝たほうがいいですよ」だって。ですよね、社交辞令を真に受けるなんて、すみません、調子に乗りすぎました。 シンガポールの夜はいつもこうして現実に引き戻されて溜息で終わるのでした。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.Vol.90 2012年2月発行号より (c)copyright 2012 Hiroshi Mori Corporation, All Rights Reserved. | ||||