LJUNIOR SUITE ROOM

ホテル情報誌「ホテルジャンキーズ」掲載記事より


西出勇志のモノ語り
「ニッポン洋行御支度史」


漢字多めの格調高い語り口、お堅い話かと思いきや、
軟派で楽しい話題まで幅広くカバー。
ジャーナリストの西出勇志さんが綴る、
ニッポン人の海外旅行史です。



にしで・たけし
●都内のマスメディアに勤務。トラベルグッズの変遷に関心を持ち、休日は明治から現代までの日本人の海外旅行史調べに余念がない。



  • 第一回 赤ゲット
  • 第二回 フライトバッグ
  • 第三回 洋行唱歌
  • 第四回 洋行支度専門店
  • 第五回 ガイドブック(1)
  • 第六回 ガイドブック(2)
  • 第七回 ガイドブック(3)
  • 第八回 ガイドブック(4)
  • 第九回 旅行会話集
  • 第十回 女性たちの旅
  • 第十一回 かばん(1)
  • 第十二回 かばん(2)
  • 第十三回 紳士の服装
  • 第十四回 世界一周(1)
  • 第十五回 世界一周(2)
  • 第十六回 世界一周(3)
  • 第十七回 男の必需品
  • 第十八回 男の携行品
  • 第十九回 戦時の旅
  • 第二十回 女性の冒険(1)
  • 第二十一回 女性の冒険(2)
  • 第二十二回 夜のガイドブック(1)
  • 第二十三回 夜のガイドブック(2)
  • 第二十四回 サングラス
  • 第二十五回 「和蘭夫人」
  • 第二十六回 「膝栗毛」
  • 第二十七回 「足袋と旅」
  • 第二十八回 「旅券」(1)
  • 第二十九回 「旅券」(2)
  • 第三十回 「税関」(1)
  • 第三十一回「税関」(2)
  • 第三十二回「税関」(3)
  • 第三十三回「子どもの旅」(1)
  • 第三十四回「子どもの旅」(2)
  • 第三十五回「記録魔 その1」
  • 第三十六回「記録魔 その2」 NEW!



  • ■第一回 赤ゲット


    欧米への旅が「洋行」と呼ばれた時代、気負いと不安、優越感と劣等感を抱えながら旅した人たちの記録は、日本人と海外旅行の変遷について、さまざまなことを教えてくれる。そんな海外旅行記をひもとく時に頻繁に出てくる言葉が「赤毛布」。この言葉をご存知だろうか。

    赤毛布と書いて「あかゲット」と読む。もともとは明治時代、赤い毛布(ブランケット)をマント代わりに体に巻き、地方から東京見物に出てきた人を指す。一言で言うと、「田舎者」「おのぼりさん」の意である。夏目漱石や泉鏡花、徳富蘆花の小説にも登場する言葉で、明治錦絵にその姿をとどめる。辞書「大言海」の昭和初期版には「友ヲ見失ハザラムガ為ニ、目標トシテ、多クハ、赤毛布ヲ身ニ纏ヒタレバナリ、明治語ナリ」とある。 明治・大正期に活躍した朝日新聞記者、山本笑月は「明治世相百話」(中央公論社)で揶揄しつつその姿を紹介している。


    (毛布を)二つに折って細紐を通し、マント式にすっぽりと被る。股引尻ッ端折に日和下駄、古帽子や手拭の頬冠り、太巻毛繻子の洋傘を杖にして、農閑の三、四月から続々上京、五人、六人、連れ立って都大路を練り歩く

    最初は、戊辰戦争の際に新政府兵士の防寒具として用いられたという。ではなぜ赤色か?書誌学者で制服史研究家の太田臨一郎によると、幕末のころの英国の貿易商が、日本人はインド人同様に赤を好むだろうと赤毛布を送りつけたためらしい。

    それが民間に浸透して田舎者の代名詞になり、それがさらに転じて海外旅行初心者を指すようになった。実際の赤毛布は明治期になくなったものの、海外で珍妙な服装や行動に及ぶ人を指す「赤ゲット」は、最近まで本や雑誌に頻繁に登場する息の長い言葉になった。

    この言葉は映画にも出てくる。東宝の「社長外遊記」(1963年)もその一つ。そこには海外に出掛ける同行の部下を「赤ゲット」と呼び、からかう社長が登場する。主演は森繁久彌。映画黄金期の人気喜劇シリーズの一作だ。

    戦後の外貨持ち出し制限が緩和され、一般の人でも海外へ観光旅行に出かけることができるようになったのは、この映画が封切られた翌年の1964年4月。社長シリーズはパンアメリカン航空の協力の下、何本かの海外旅行ものを製作する。森繁や加東大介、小林桂樹、三木のり平が繰り広げる赤ゲットぶりに観客は笑い転げ、庶民には縁遠い海外旅行を夢見た。自由化の年の海外渡航者はわずか13万人。現在の百分の一にも満たない。

     明治初期から大正、昭和まで、人々が憧れた海外旅行。その歴史を携行品から読み解く旅に出てみる。まずはドタバタ赤ゲットの社長シリーズから始めることにしよう。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.57より



    ■第二回 フライトバッグ


    森繁久彌主演の「社長シリーズ」は、1950年代半ばから70年まで続いた東宝の人気喜劇である。いくつになっても浮気の虫がおさまらない社長の森繁、実直で昔気質の加東大介、宴会好きで「パーッといきましょう」が口癖の三木のり平、そんな上役たちに振り回される秘書役の小林桂樹らが、会社を舞台にドタバタを繰り広げた。時代はまさに高度成長期、明るく溌溂とした当時の社会風俗がふんだんに出てくるのが楽しい。海外旅行も憧れの存在としてしばしば登場する。

    まずは初期の「社長三代記」(58年)。ここにも森繁が渡米するエピソードが出てくるが、実際に渡米はしない。新聞記事を見せて飛行機が飛ぶシーンを映すだけだ。シリーズ初の海外ロケは「社長洋行記」(62年)。行き先は香港だが、これを洋行と呼ぶところに時代感覚がよく表れている。

    森繁は製薬会社の社長。東南アジアでの商売を広げようと、典型的日本人である営業部長の加東、秘書課長の小林とともに香港へと乗り込む。羽田空港で見送りの人々に手を振る晴れやかな3人は、ソフト帽を被ったスーツ姿。直後、機上の人となった加東はオレンジ色の魔法瓶を取り出す。中には熱燗の日本酒。重箱にはクサヤとタクワンがあり、周りの外国人が鼻を押さえる場面が展開される。加東には腹巻から金をつかみ出すシーンもあり、洋行赤ゲットぶりを発揮する役どころだ。

    到着した香港で3人が肩から掛けているのは、ブルー地に地球のマークのパンアメリカン航空の鞄。フライトバッグ、オーバーナイトバッグと呼ばれた航空会社提供の鞄で、これは後に海外旅行の代表的アイテムとなる。鞄と言えば、彼らが持つスーツケースに移動に便利なキャスターは付いていない。

    香港に続き、翌63年にはハワイを舞台にした「社長外遊記」「続社長外遊記」が封切られる。森繁は、海外進出を図るデパートの社長。秘書課長の小林を駐在員として派遣した後、常務の加東、営業部長の三木のり平とともに常夏の楽園へと飛ぶ。

    三木は機内でリコーフレックスやミノルタオートコードに代表される当時主流の2眼レフカメラで写真を撮りまくり、加東は唐草文様の風呂敷に包んだ電気炊飯器を大切に抱えている。

    宿泊先のホテル(ワイキキのハワイアンビレッジ)で、炊飯器で米を炊くのに夢中の加東は、ベランダに干していたふんどしを落としてしまう。ヒラヒラとワイキキの空を舞うふんどし。水着の女性を見るために三木が持参した双眼鏡で追うが、「いいもの持ってるな」「あなたのふんどしを探すために持ってきたわけじゃない」という2人の会話が妙におかしい。既にふんどしはアナクロな存在で、それを拾った日系人役の柳家金語楼が「ハワイへ来るのにふんどしなのはyouくらいだ」と笑う。

    一方の森繁は、エッチだけれど彼らの赤ゲットぶりとは一線を画すインテリ。日本料理屋女将の新珠三千代と個室でしっぽり酒を飲んでいる。そこへ三木らがやってきて部屋をノック。邪魔されまいとする森繁は大声で怒鳴る。「サムワンイン!」

    これは61年のミリオンセラー「英語に強くなる本」(岩田一男著)の冒頭にあるフレーズ。トイレに入っている時にノックされたら何と言えばいいかの英語表現だ。64年の東京オリンピックを控え、英語熱が高まっていた時代の話である。当時のちょっとインテリな観客は大いに笑っただろう。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.58より



    ■第三回 洋行唱歌


    明治期以降、全国津々浦々で歌われた唱歌は、啓蒙的な「メディア」の一つだった。日本人に海外への憧憬をもたらしたのも唱歌で、皇族から一般大衆まで、洋行への夢をかき立てる役割を果たした。

    例えば秩父宮のエッセイ集「思い出の記 秩父宮雍仁親王文集」には、大正天皇にまつわるこんなエピソードがつづられている。

    母上がピアノを弾かれ、侍従、武官、女官に、父上も加わられて軍歌が多かったように思うが、唱歌もいろいろとうたわれた。

    「広き世界の国々の、変る姿を見て来むと…」という世界漫遊の歌は常にうたわれたものの一つであった。

    大正天皇が好み、家族で歌ったという「世界漫遊の歌」。正式タイトルは「國民唱歌・世界萬國」で、明治三十七年に芳賀矢一が尋常高等小学校用に書いたものだ。

      廣き世界の國國の
       かはる姿を見て来んと
       勇む心にはるばると
       萬里の旅に出で立ちぬ

    歌は帝国主義の色彩を帯びながらもアジアから欧州、米国を回り帰国の途へ向かう。

      過ぎて名残のをしまるる
       飽かぬ船路の太平洋
       ああ國民よいざ奮へ
       起ちて四海に雄飛せよ
       日本は世界の日本なり
       世界は日本の世界なり

    作詞の芳賀は幕末の生まれ。「七里ガ浜の磯伝い」の歌いだしで知られる「鎌倉」などの唱歌を作詞した国文学者だ。洋行に関する唱歌はほかにもある。「世界一周唱歌」は明治三十四年の発行で、作詞は国文学者で歌人の池辺義象。

      天地もさかゆる大御代は
       四海の波も静かなり
       君と親との恩うけて
       世界の旅をや企てん

    冊子の表紙には蒸気船が大海原を往く姿と蒸気機関車があしらわれている。

    歌は、新嘉坡(シンガポール)、錫蘭島(セイロン島)を経て「暑き印度」を過ぎ、「駱駝嘶く阿良毘亜(アラビア)の砂漠の月」に旅愁を感じ、「文明開化の欧羅巴(ヨーロッパ)」へとたどりつく。大西洋を回って米国へわたり、なんと「見つつかへらんメルボルン」とオーストラリアまで足を伸ばすのである。

    名所旧跡を詰め込んだ教育目的の「地理教育世界漫遊唱歌」というのもある。出だしは悲壮感に満ち、現在のお手軽旅行とは異なる当時の空気を反映しているかのようだ。

       黒煙横たふ海の面
       ほばしらならぶ大港
       さけびてひびく笛の音
       ここぞ名に負ふ横濱ぞ
       波止場に送る友はいふ
       とく行きてとく帰りこよ
       分かつ袂は涙にて
       はやはなれたり灣頭を

    洋行を取り上げた歌は唱歌ばかりではない。時代を遡った明治中期には、久田鬼石作の壮士節「世界漫遊の歌」が出ている。

       扁舟に棹し飄然漫遊すれば
       烟は迷ふ亜刺比亜海、海は鎖す
       阿弗利加州(中略)難なく
       埃及に上陸し

    演歌師で作家の添田知道はこの曲について「此の突飛な世界一周はどうだ、いきなり埃及(エジプト)へ安着してしまうなどは徹底している。兎に角これが日本で最初の世界一周歌である」と紹介している。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.59より



    ■第四回 洋行支度専門店


    日本人の海外旅行史を語る上で、忘れることのできない会社が東京・新橋にある。海外旅行用品の三洋堂(丸山剛社長)だ。半世紀近く前のガイドブック「外国旅行案内」(日本交通公社刊)に「都内唯一の海外旅行支度専門店」と広告が出ている老舗。戦前から軍人、政府関係者、学者、財界人、芸能人らの洋行支度一切を請け負ってきた。その三洋堂が今年、百周年を迎えた。

    一九○七(明治四十)年、横浜に丸山兄弟商会として誕生した。ビジネス成功者の人名録である一九一○(明治四十三)年発行の「横濱成功名誉鑑」には、靴鞄製造販売として創業者の丸山権一郎氏の名前がある。一九二一(大正十)年に太平洋、大西洋、インド洋をまたに掛ける「三洋堂」と改称、鞄からシャツ、靴下、小物類まで、海外旅行に必要なすべてを取り扱うようになった。

    創業者の弟である丸山敏雄氏が昭和四十年代、観光関係の業界紙に「海外渡航仕度五十年の回顧」というタイトルで戦前の思い出話を書き残している。この連載が当時の洋行の空気をビビッドに伝えている。

    洋行支度の営業はまず海外出張者が記載される官報の毎日のチェックから始まる。出張者のお屋敷を調べて訪問し、注文を取った。もちろん、個人ばかりではない。同社は第一次大戦後のワシントン軍縮会議などの全権団の身支度一切もととのえている。回想録によると、一九三二(昭和七)年のジュネーブ軍縮会議に参加する海軍の大幹部を前に、冷や汗をかきながら海外渡航の説明をしたという。洋行は軍人にとっても一大事だったようだ。

    同社は戦後もフルブライト留学生をはじめ、さまざまな人々の海外渡航の準備にかかわっている。百周年の記念誌編集に携わった相談役高林郁雄さんは一九四八(昭和二十三)年に入社。半世紀以上に及ぶ「洋行さん」との交流は実に興味深い。

    海外ロケに出かける女優のスーツケースを用意、川端康成のノーベル文学賞の授賞式の渡航準備もした。川端は車で三洋堂に乗り付け、授賞式に臨む一切を揃えた。スーツケースは、富士山などが図柄に入ったものが気に入って購入したそうだ。高林さんはGHQから依頼を受けてマッカーサーのパスポートケースも作ったという。

    自他ともに認める洋行総合コンサルタントの三洋堂はまた、工夫を凝らした新製品も数多く開発してきた。紙製パンツ、欧米のホテル内を歩いても「ギュウギュウ鳴らない靴」…。海外でのあらゆるシーンに対応しようという心意気だったようだ。

    会社のキャッチフレーズは「すべてが一ヵ所でそろう」。それを裏付けるマル秘の印が押された紙が三洋堂に残る。海外旅行用の持ち物リストだ。見ると、時代を感じさせるものがたくさんある。ステテコ、ソロバン、ぬれタオル入れ、浴衣乃帯…。品名の横に数量が書き込めるようになっており渡航先と期間、目的などを客に聞きながら、携行品を決めていった。このリストは三洋堂独自のノウハウに基づくものだったため、ゼロックスする(!)ことができないように裏を黒く塗りつぶしていたそうだ。

    一九六三(昭和三十八)年の三洋堂の案内の結びには「バタ臭い香りをただよわせながら『只今無事で帰ったぞ』という日を祈念しつつ」とある。海外旅行が自由化されるのは、その翌年である。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.60より



    ■第五回 ガイドブック(一)


    一九〇一(明治三十四)年十二月十八日、ロンドン滞在中の夏目漱石は、留学直前の茨木清次郎(後の東京外国語学校長)に宛て、渡英に関する懇切丁寧な手紙をしたためた。旅装や下宿の探し方について箇条書きでアドバイスしたその手紙の中に、次のような記述がある。

    「ベデカーの倫敦案内は是非一部御持参の事」

    ベデカーとは当時、非常に重宝された旅行ガイドブックのシリーズのこと。ガイドブックの代名詞として英和辞典にその名が記されるほど一世を風靡した。洋行する日本人はトランクに必ずこれを入れたと言われ、漱石も一九〇〇年に渡英した際にベデカー片手に市中を歩き回ったという。

    ベデカーは十九世紀前半、ドイツ人のカール・ベデカーによって創始された。英国のマレー社発行のガイドブックと並び、最初の本格的なトラベルガイドとして、旅行者の必携品となった。ヨーロッパ諸国や中東といった各地域を対象に、英独仏などの言語で刊行されたが、その記述の細かさと正確さが日本人の心を捉えた。

    大正年間に日本で刊行された「世界通」という本がある。編集顧問の一人に海外団体パック旅行のはしりである朝日新聞の「世界一周会」を引率したジャーナリスト杉村楚人冠を迎え、旅行の心構えから世界各地の情報(スーダンの記述まで!)を満載している。

    その序文に「欧米に於ける世界的旅行の案内書としては、独逸のベデカアが最も多く世に行はれているが、我が世界通は即ち『日本のベデカア』を以て自ら任ぜんとする者だと云へば、唯其の一言を以て、『世界通』の意義内容は直ちに明白となることを信じる」とある。

    ベデカーに対する高い評価が分かる記述で、まさに旅のバイブルとされていたようだ。事実、当時の文化人の洋行記にはこの本に触れたものが多い。

    斉藤茂吉、永井荷風、黒田清輝…。漱石の弟子でもあった物理学者の寺田寅彦は、ベデカーを愛用しつつもその記述どおりに見物しようとする日本人の姿に皮肉な目を向けている。北里柴三郎の弟子でマラリアの研究で知られた宮島幹之助もベデカーに触れている。

    宮島が軽妙なタッチで洋行者の失敗談を綴り、パリで活躍したグラフィックデザイナー、里見宗次が挿絵を描いた一九三六(昭和十一)年刊行の「洋行百面相」。

     その中の「世界は廣いようで狭い」と題された文章は、パリのエッフェル塔の上で偶然に出会った一人の若い日本人について書いている。典型的洋行者と宮島が捉えた彼は「肩にはコダックの寫眞器をかけ、片手にベデカーの案内書を携へた」姿だった。

    そんな一時代を画したベデカーも徐々に衰退し、ミシュラン、ブルー・ガイド、アーサー・フロンマーの1日○ドルの旅、ロンリー・プラネットなど、それぞれの時代に対応した新たなガイドブックが次々と登場してくる。ベデカーは現在もドイツで出版されているが、よほどのガイドブック好き以外、知る人は少ないだろう。

    ちなみに冒頭で触れたベデカーのロンドン案内だが、一九〇〇年版が四年前にOld House Booksから復刻されている。漱石も歩いた十九世紀末のロンドンに浸れるこのガイドブック、当時のホテルやレストラン情報もたっぷり入っている。関心のある方は、ぜひどうぞ。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.61より



    ■第六回 ガイドブック(二)


    一九六一年、現代教養文庫から「海外旅行ABC」が出た。著者は九州大教授で理学博士の三上操氏。五九年に出かけた欧州視察を基に、携行品からチップの渡し方までを綴った個人版の海外旅行ガイドブックだ。戦後の混乱期を脱して増えてきた洋行者のために、役立つ知識を伝えようと執筆された。数多くの情報を盛り込んで出版時に話題になった本だが、その大きな特徴は個人が書いたガイドブックである点だろう。

    現在、実用的なデータを満載したガイドブックのほとんどは、出版社編集の組織だったものである。しかし、六四年の海外旅行自由化以前、英語やドイツ語で書かれたベデカーシリーズなどの欧米ガイドブック以外、日本語のものはないに等しかった。ほとんど唯一といっていい例外が、五二年に日本交通公社が出した「外国旅行案内」。ただ、世界中を網羅しているためハンディーではなく、旅行先で持ち運びがしやすい四分冊スタイルとなったのは六〇年。この案内はしばらく独占状態が続き、各出版社のガイドブックは、しばらく後になる。

    それ以前、外国語の不得手な洋行者の頼りになったのは、個人ベースの日本語ガイドブックだ。最初の本は、一八六八(慶応三)年の福沢諭吉「西洋旅案内」だろう。観光案内などはないが、船賃なども示した実用的なガイドブックで、続編の「西洋旅案内外篇」には英会話手帳も入っている。

    明治・大正期は海外雄飛熱が高かった。海外旅行記、探検記などが多数出版され、その中で数は多くないものの、個人版ガイドブックもいくつか出ている。例えば、一九〇九(明治四十二)年の水哉坪谷善四郎の「世界漫遊案内」。時代を感じさせる記述が多く、読んでいて楽しい。「同行者の選択」には「身分にも、年齢にも、甚だしい懸隔がなく、肝胆相照らして、膝栗毛旅行の出来る朋友が最もよい」とある。連れ立って外国へ出かける明治の旅を髣髴とさせる。

    大正に入るとめぼしいものとしては一九二〇(大正九)年の「欧米視察案内」(平富平著)がある。「寝衣などの淫らな風をしたまま室外などに出てはならぬ」「ナプキンはチョイチョイ口を拭ふ為に使用するもので汗が出ても決して之で顔を拭くものではない」など「べからず集」が多数。ホテルに関しては「ウオルドーフ、アストリヤホテル 室代三弗以上」などの記述がある。

    筆者のお気に入りは、上村知清と荒巻栄の「米国旅行案内」(日米図書出版社)。一九一九(大正八)年に初版が出ている。同書は「久しく北米の地に在りて、此等の人々を送迎するに際し、通常の案内書なきに苦しみたる経験」から生まれた。米国人気質から観光ポイント、船、ホテルの過ごし方まで事細かに書かれている。巻末には「無聊を慰める」ための実録小説仕立ての読み物まである。これが何とも味わい深い。題して「夜の亜米利加 淪落の米国」。その一つ、「桑港魔窟探検記」を紹介しよう。

    ある邦字紙の新聞記者がフィリピン人になりすまし、サンフランシスコの「商売宿」のボーイとなり、通ってくる日本人の男どもの生態を観察する。その際、彼と夜の女性たちとの会話がいい。「有難山の鳶烏と申したい」「お前さん中々乙な口を利くね」。実際に話したのはどんな英語?とツッコミを入れたくなる。

    ある日、商売宿に大手会社の日本人マネージャーがやってきて、五十銭銀貨をボーイに化けた彼にチップとして放り投げる。怒った新聞記者はついに日本語で怒鳴る。「君らのような助兵衛先生のダラシなさ加減を探ってやろうと住み込んだんだ。素っ破抜いてやるから覚悟しておきたまえ」。

    長い船旅では格好の読み物だったに違いない。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.62より



    ■第七回 ガイドブック(三)


    今回は、六〇年代の空江さん一家の「外国旅行」について書こうと思う。

    五十代なかばの空江伸平さんは、東西商事の調査部長で定年を迎えた。幸いなことに子会社の顧問就任も決まり、出社前の数ヶ月間を利用して妻のミチ子さんと海外へ出かけることを計画する。飛行機で香港からバンコク、インド、エジプトなどを経て欧州各国を訪問、北欧を経由して帰国する旅だ。貿易会社に勤める娘のアツ子さんも加わり、四十五日間の外国旅行が始まったー。

    空江というベタな名前で分かる通り、実在の家族ではない。しかし、映画や小説のキャラクターでもない。彼らは実業之日本社が六〇年代半ばに刊行を始めた海外旅行案内シリーズ、ブルーガイド海外版の「海外旅行 空の旅」の主人公なのである。

    五百ドルという制限付きながら外貨の持ち出しが自由化され観光での海外旅行が認められるようになった六四年。当時のニュースフィルムは「外務省の旅券課には連日、二、三百人が訪れる押すな押すなの大盛況」と報じたが、庶民には縁遠い世界。一般向けの海外旅行ガイドブックはほとんど存在しなかった。五十二年に刊行された日本交通公社の「外国旅行案内」(七七年に「世界旅行案内」と改称し八二年に廃刊)ぐらいで、他には五八年に外務省内の経済外交研究会が発行した視察旅行向けの「ポケット 世界旅行案内」しか見当たらない。

    そんな中、海外旅行ガイドブックの今後の拡大に目をつけたのが実業之日本社。ただ、先行する交通公社のように海外にネットワークはない。そこで日本航空の全面的な協力を得て、さまざまな国や地域を紹介するブルーガイド海外版をスタートさせた。空江さん一家の「空の旅」は、シリーズ初期に刊行された一冊。海外旅行を疑似体験することで身近に感じ、旅行の基本的な知識なども身につけてもらう狙いで編まれた。

    だからこそ、この本には時代の空気がよく出ている。まず、田園調布に住む空江家には妻と娘、息子以外に戦争未亡人らしい義姉が同居している。空江さんは一流企業を定年となって、退職金が入った人物。こうした人々が今後の海外旅行のターゲット層になると踏んでの設定だろう。ちなみに旅行の費用は三人で二百万円程度である。

    妻のミチ子さんは「往年の美しさはまだ失われていない」四十八歳で、古いタイプの女性。初めて会う旅行会社の男性社員を見て「娘のお婿さんにいいんじゃないかしら」と呟く。旅行会社のステータスがうかがえるエピソードでもある。

    携行品の用意では「ハンガーなんかいるんじゃないかしら」から始まり、インスタントの味噌汁、ラーメン、梅干を挙げて、最後には米もバッグに入れようとし、軍隊経験のある夫から「荷物は少ないのが一番」と止められる。

    現代っ子の娘アツ子さんは、バリでダンスを見た際に撮影をためらい、ガイドから「大丈夫ですよ、首狩族じゃないんですから」と諭される。当時の一般的日本人の東南アジア観はこんなものだったのだろう。

    会社と個人の関係も現代とは異なる。空江さんが「目をかけてやった」部下が各地の支店長になっていて、ホテル代なども払ってくれる。彼らは経費で落としている模様で、財布まで会社と一体になった高度成長期のサラリーマンライフを髣髴とさせる。

    本の定価は三百三十円。息子のワタル君が新婚旅行に出かける米国編付き。口絵のパリ・オルリー空港の写真には「東京羽田からここまでわずか十九時間」とある。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.63より



    ■第八回 ガイドブック(四)


    これまで明治期から海外旅行自由化前後までのガイドブックの歴史を見てきた。その後、ジャンボジェットの就航(七○年)で大量輸送時代を迎え、海外旅行が一般化するに従って数多くのガイドブックが出まわるようになった。エポックメーキングな出来事と言えば、七九年の「地球の歩き方」シリーズの刊行だろう。これがガイドブックシーンを劇的に変えたといっていい。

    実は「地球の歩き方」には、お手本となった米国のガイドブックがある。アーサー・フロンマーの「1日○ドルの旅」シリーズだ。軍隊にいたフロンマーが米兵向けのヨーロッパガイドを五五年に執筆、それが好評だったために一般向けに出したのが五七年の「ヨーロッパ1日5ドルの旅」。経済的な旅行をしたい人向けのこれまでにない画期的なガイドブックで、バックパッカーたちのバイブル的存在となっていく。

    七○年ごろ、欧米でこの本に出合った一人の日本人バックパッカーが、こうしたガイドをいつか日本でも作ろうと考えた。「地球の歩き方」創設の中心的存在となるダイヤモンド・ビッグ社の西川敏晴さんだ。

    きっかけは、学生向けの企業就職ガイドを作っていた同社が就職内定者向けにローンでの卒業旅行を催行する企画を打ち出したこと。当初は英語学校とホームステイのセットだったが、その後に各地を回る自由旅行へと変化する。例えば、ロンドンに入って一ヵ月後にパリに集合する場合、フィックスされているのは最初のホテルの二泊分、それとユーレイルパス。

    参加する学生たちの「宿が取れない場合はどうする?」といった質問に答え、無料配布用の資料をせっせとつくるうちに、それがどんどん分厚くなっていった。「地球の歩き方」はそこから誕生した。

    七九年に出た最初の二冊は「ヨーロッパ」と「アメリカ」。それぞれ一万部ずつ出版し、三カ月で完売した。こうしたガイドブックが切望されていたのである。「地球の歩き方」はその後、次々に各国へと展開していくが、第三弾はどこかお分かりだろうか? 正解は「インド」。この選定にも時代の空気と読者層がよく出ていると思う。

    さて、「地球の歩き方」の最大の特徴といえば、読者投稿だろう。○○大学の普通の学生らが「安くておいしい」と勧めるレストランに、「ここが親切」と紹介する安宿の情報。同世代の人間たちは金がなくても世界へと旅立つ勇気と知恵をもらった。

    しかし、多くの貧乏旅行者に愛された読者投稿は九○年代に入ってから姿を消す。情報量の多さから一般の人々も「地球の歩き方」を買い求め、読者層の広がりが「美味」「快適」の概念も広げていったからだ。一時は情報が不確実だというバッシングも受け、現在のような形へと変化していく。

    シリーズから消えたものがもう一つある。本の切断面である小口のブルーだ。それはかつて、フロンマーの本を手にした西川さんが、アメリカっぽくて格好いいと感じた色だった。ただ、ある時期からこれが日本人であることの目印となり、泥棒からターゲットにされるようになったという。代表的なガイドブックとして育った「地球の歩き方」にふさわしいエピソードだろう。

    「地球の歩き方」のようなタイプの世界的ガイドブックにロンリープラネットがある。七三年にトニー&モーリーン・ウイラー夫妻が新婚旅行を元にまとめた本が、現在は世界最大級のシリーズへと発展した。日本語版の刊行は○三年六月だ。

    上記のシリーズはすべてミニコミ的にスタートしているのが特徴。若者の冒険心のたまものと言えるだろう。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.64より



    ■第九回 旅行会話集


    曾我廼家五郎(一八七七?一九四八)をご存知だろうか?
    曾我廼家十郎とともに、近代日本で最初の本格的喜劇団を主宰した人物である。型破りな喜劇役者で、一四(大正三)年に突然、ヨーロッパへ出かけてしまった。新派の川上音二郎一座のように、海外公演をするためではない。当時では極めて珍しい、目的のない海外旅行なのである。

    しかも「一言半言をも外国語を解さぬ」(「曾我廼家五郎洋行日記」)のに、愛人との二人旅。さらにヨーロッパで第一次世界大戦に巻きこまれるなど、波乱万丈の日々を過ごした。旅先で出会った欧州派遣将校、寺内寿一(後の元帥陸軍大将)の上着をしっかり握ったまま放さなかったというエピソードもある。

    弟子筋に当たる松竹新喜劇の創設者、二代目渋谷天外の回顧録によると、大阪弁しかしゃべれない五郎の命綱は「日仏会話、日米会話のルビつき辞書二冊」だったらしい。現在の旅行会話集である。

    言葉の通じない国でのコミュニケーションで重要なのが、ボディーランゲージと簡単な言葉のやりとり。明治期から今日まで、外国語が苦手とされる日本人にとって旅行会話集は必須のトラベルアイテムだ。

    こうした会話集の類は、なんと、維新直後の一八六九(明治二)年には既に出版されている。吉田賢輔編集「西洋旅案内 外篇」である。慶応年間に刊行の福沢諭吉「西洋旅案内」の続編ともいえるこの本は、横浜からサンフランシスコ、ロンドンまでの旅行費用などをドル換算で具体的に記した実践的ガイドブック。最大の特徴は全体の約半分を割いたルビつきの英会話集だろう。

    邦文と英文を見比べると、実に興味深い。「私共は出立する」が「Now we are off.」。食事の場面では「我に包丁を与へよ」。料理でもするのかと思いきや「give me a clean knife」とあり納得。「Beefsteak」は「やき牛」。どうも食欲がわく訳語ではない。

    もう少し時代を下ってみよう。〇六(明治三十九)年の「最近渡米案内」(山根吾一編纂)は、主に移住希望者に向けて米国での暮らしを紹介した本である。海外旅行という連載の趣旨とややずれるが、旅行でも使えそうなユニークな文例が多いのでのぞいてみる。

    たとえば洋服店での会話。「Coat and vest are all right, but pants is too long. 上着も胴衣もよろしいがズボンは長すぎる」。「Very well I will cut it for you. 左様なら切らせましょう」。胴長短足は日本人の基本体型。米国できっと遭遇する状況だろうと見越し、こんな例文を用意しておく。見事な心遣いではないか。

    労働運動家で社会主義者として知られる片山潜が明治年間に書いた「渡米の秘訣」も短期旅行者向けではないが、多くの会話文例が出てくる。さらに「英吉利語獨脩」「日清英會話獨脩」「英仏獨和 四國新會話」などの本の広告が、五十銭から二十五銭の価格で並んでいるのが実に興味深い。

    ここで既に四カ国語会話集の存在が確認できる。当時の旅が基本的に周遊型だったためだろう。海外旅行は一生に一度。だからこそあちらこちらを観光する。そうした考え方が崩れたのはごく最近のことだ。

    そんな周遊型の旅のための会話集で、半世紀近くも続くベストセラーが、六〇(昭和三十五)年創刊のJTB発行「六ヶ国語会話」。横長が特徴のこの本は、東南アジア編など計六冊が出ており、「パンタロン」など死語となった言葉を順次入れ替えている。表紙を外すと「Pocket interpreter」という英文表記。ビジネスパーソンが持っても違和感がないように作られているそうだ。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.65より



    ■第十回 女性たちの旅


    「考えましたネー、洋行用の帯」
    こんな見出しで始まる記事が東京朝日新聞に出ている。
    日付は一九三一(昭和六)年五月二十七日。満州事変の発端となった柳条湖事件が起き、羽田飛行場(羽田空港)が開港し、犬養毅内閣が発足した年だ。

    記事は、夫に同伴した妻が海外で社交界に出て行く際の和服の着方に焦点を絞っている。

    「着物は有り合わせのでも、思い切った派手向きなのでも」大丈夫だが、問題は帯だという。結び方も「お太鼓」だけでなく、「矢の字」「対扇」などいろいろ凝りたいが、覚えるのも大変。そこで好みの形に結んであるインスタント式の洋行帯の登場となる。

    記事によると、考案したのは新妻妙子さんを伴って音楽行脚に渡欧した平尾賛平氏の令息平尾貴四男氏。後にクラシック音楽の作曲家として世に知られる人物だ。

    「良人がタキシードのネクタイを結んでいるひまにちょっと背負ってわきの下のところでボタンをとめればすっきりと絵のようなおつくりができる」。

    平尾氏が苦心の上考案したという洋行帯をこんなふうに紹介している。わかりやすいように写真が併用されており、結びは近代美容を開拓した遠藤波津子女史によるものだそうだ。

    明治から戦前まで、洋行者のほとんどは男性で、女性はごくわずか。海外旅行黎明期の女たちの旅をいくつかみてみよう。

    一九○八(明治四一)年に催行された日本初の海外観光の団体旅行、世界一周会。朝日新聞がトーマス・クックの協力を得て実施したこのパッケージツアーには五十人強が参加し、女性は三人。横浜の美術商、野村美智子らで、ローマのコロッセオで和服を着てたたずむ写真が残っている。

    夫との同伴で洋行する女性たちは時代を追って増えるが、記録を残している人は少ない。そんななかで興味深いのが、一九二一(大正一○)年の「女の米国のぞき巾着旅行日記」。著者は、宇治川電気(関西電力の前身)取締役影山銑三郎夫人で、夫の米国出張に同行した影山やま子。

    この日記は実に面白い。それは、携行品や食べ物、値段などを詳細に書き留めているためだろう。

    たとえば、旅立つ前の準備品リスト。ブラウス、ペチコート、旅行用化粧箱、ズック張柳行李、ネックレース、ヘーヤネット、和洋寝衣、脛隠シ(?)、胴巻と二ページにわたっての列挙が続く。先達からいろいろ聞いたのだろう、コルセットには「不用ナリシ」の言葉があり、タオル、手ぬぐいには「不用ナリトノ事ナリシガ」と半信半疑、ためらいがちに記述している。

    彼女は、明治時代の救急常備薬、宝丹の世話にもならず、楽しみつつ、船旅をスタートさせる。うどん煮込みを食べ、蓄音機を聞く。

    寒さを感じると「フランネル単衣に夏襦袢二枚、毛糸腰巻、毛糸腹巻を着け、大真綿三枚背負いてもなお寒く、大行李よりメリヤスシャツと真綿を出す」。

    この詳細ぶりが当時の旅を髣髴させる。

    昔の女性の旅行記で、筆者が好きなのは一九三二(昭和七)年の馬郡沙河子著「欧羅巴女一人旅」(朝日書房)。

    「美々しい結婚衣装などいらない」と病院経営の父親に金を出してもらい「魔の列車と想像されるシベリヤ経由」で単身、英国に出かける。

    周囲の無理解に怒ったり笑ったりしながら、今後の女性像の在り方も模索している。

    ゆまに書房から復刊されているが、たまたま古書を入手した。表紙裏に彼女が家族に宛てた手跡の美しいサインがあり、手に取ると気持ちがほんのりと温かくなる。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.67より



    ■第十一回 かばん(一)


    東京の下町、駒形に、旅行用品に関心を持つ人に必見の博物館がある。古今東西のかばんを集めた「世界のかばん館」だ。

    信玄袋や柳行李といった昔のかばんから、アザラシ皮のイタリア製ダレスバッグなどの珍しい展示物が並ぶ。

    中でも興味深いのが、船旅全盛時代のトランク。特に大正初期に米国で製作されたクッションワードローブトランクが目を引く。キャスターまで付き、紳士淑女の必携品である帽子を収める専用場所もしつらえた巨大な衣装ケースだ。もちろん、そのトランクでも多数のドレスは収納できない。世界を旅する富豪たちは、どれだけの数のトランクを積み込んだのだろうかと考えるとため息が出る。

    そこまでの金持ちでない場合、携行品は当然に控え目だ。政治家や学者ら洋行者たちのガイドとして、一九二〇(大正九)年に刊行された「欧米視察案内」(林富平著)を見てみよう。

    同書は、トランクの数が多くなるから「携帯品は出来得るだけ手加減」する必要があると述べ、大きなかばんは「スチーマートランクとスウーツケースで間に合わせるようにする」と記している。スチーマーとは汽船の意。その響きが、ゆるやかな往時の旅を彷彿とさせる。

    ただ、乗船客の貧富の差が激しかった時代、トランクを持たない層も多かった。一九〇二(明治三十五)年の「海外出稼案内」(移民保護協会編)は、移民向けのガイドブック。同書はかばんについて「トランクなれば最も妙であるが三等旅客には其様に旨くも行くまい」と断じ、「錠のしっかとした堅固なズック張の行李は是非必要」とアドバイスしている。

    映画「タイタニック」で描かれるように、幅広い階層の者たちが閉ざされた空間で長時間過ごす。そこではさまざまなドラマが交錯したことだろう。

    さて、かばん博物館に話を戻そう。オープンは一九七五(昭和五十)年で、運営するのはかばんメーカーのエース。一九四〇(昭和十五)年に同社の前身、新川柳商店を創業した新川柳作氏の発案で開設された。新川氏はかばん界にあってこの人ありと知られる人物で、サムソナイトの国産品を製造・販売した(現在はブランド契約が終わり製造を終了)。

    サムソナイトは、一九一〇(明治四十三)年に米国コロラド州デンバーで創立された航空機時代を代表するスーツケースのブランド。新川氏の半生記「報恩感謝をかばんに託して」によると、一九六〇(昭和三十五)年に販売代理店契約をサムソナイトと締結した。その後、技術提携を結び、一万円の国産品「サムソナイト デボネア」が一九六六(昭和四十一)年に完成、翌年発表される。カタログには「世界のカバンサムソナイトがお求め易くなりました」とある。

    そのサムソナイトは、海外旅行自由化の時代を迎え、日本人にとってもスーツケースの代名詞となっていく。まさに海外旅行を代表するアイテム。そんなスーツケースとの出合いを描いた好エッセーがある。ノンフィクション作家工藤美代子さんの「サムソナイトをひきずって」だ。工藤さんは十四才での初の海外旅行に真っ赤なサムソナイトを買ってもらい、それが「まるで巨大な穴のように、たいがいなものを呑み込んで」くれることに驚く。しかし、三十代にもなると、荷物はスーツケースからあふれ出てくる。人生の岐路に立った工藤さんは思う。「責任を持てるのはこのスーツケース一個分の日常。これ以上大きくなったら、もう手に余る。生涯、これ一個をひきずって生きてゆけたら」

    旅は人生そのものである。そして、スーツケースの傷や汚れに、生きてきた時間が刻み込まれている。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.68より



    ■第十二回 かばん(二)


    物理学者で随筆家、俳人の寺田寅彦(一八七八?一九三五)が洋行したのは、明治も末のこと。欧州から帰国の途中、米国で手荷物検査を受けた時の思い出をエッセーに書き残している。

    口をニチャニチャと動かす税関の検査官に、ぎっしりと荷物を詰めたかばんを底まで徹底的に調べられた。それがチューインガムを見た最初だったそうで、好ましくない思い出として記されている。

    その際、ひっくりかえされたかばんというのが、師匠である夏目漱石から借りてきたもの。漱石が英国へ赴いた時に使用したかばんで、上面にK・NATSUMEと書かれているのを、新調のズックのカバーで包み隠していたという。洋行に必要なグッズを揃えるのも大変だった時代のことである。

    そもそも、かばんという言葉は明治以前にはなかった。江戸時代、旅行に用いられたのは、手ぬぐいなどで結んで振り分けて担ぐ小さな行李、竹などでつくった大きなつづらの明荷(あけに)、革でつくったかばんの原型とも言える胴乱(どうらん)などだ。西洋からトランクなどが輸入され、「鞄」という漢字が「発明」されるのは一八七七(明治十)年ごろで、初期のかばんには、上部がパカッと両開きになる丸型、トランクに似た櫛型、大割れなどのタイプがあった。旅行用かばんはその後、航空機の発達やレジャーブームなどのさまざまなきっかけで進歩していく。

    JTBが一九二四(大正十三)年に創刊した雑誌「旅」は、海外旅行が翌年に自由化される一九六三(昭和三十八)年の三月号で、旅行かばんの大々的な特集をしている。飛行機での旅が主流になりつつあった時期で、携行品入れの中心となるスーツケースについて「箱型で全面をベニヤ加工板で強化した」製品を紹介している。ただ、当時の旅行者に聞くと、ベニヤのスーツケースは強度面で問題があり、数回の使用で割れることがあったという。ちなみにスーツケースが横型から縦型になり、現在のようなキャスターが付くのは七○年代以降になる。

    戦後初の本格的なガイドブック「外国旅行案内」の一九五五(昭和三十)年版を見ると、所持すべきかばんは「洗面用具・下着の着替え・ねまき・予備のワイシャツ、スリッパを入れるくらいの旅行かばん」の「航空会社でくれるオーバーナイトバッグ」や、革ではなくファイバー製スーツケース、また小型の書類入れ。ただ、同ガイドの一九六三(昭和三十八)年版で、小型書類入れには「つまりブリーフケース」と注釈がつき、オーバーナイトバッグは「一等客には航空会社でくれるかばん」と変化している点が面白い。

    さらに興味深いのは、スーツケースなどには「英文名札をつけるほか、氏名をローマ字で書きいれ、さらに氏名・住所を書いた紙片を内に入れておく」と記していることだ。身元が分かる表示はしないとのアドバイスが多い現代とは異なっている。

    現代との違いと言えば、一九八九(平成元)年に出たJTBるるぶ情報版「旅グッズ大研究」も興味深い。このころはトラベルグッズに関する雑誌や本がいくつも出版され、購買意欲をそそる記事が多数ある。このるるぶには「あなたは何派?」というクイズ形式の記事があり「気分はいつもファーストクラス派のあなた」へのお勧めに挙げられているバッグは、「エルメス マレットフレーシュドール(百二十万)」、セカンドバッグは「ルイ・ヴィトン セカンドバッグ アンギャン(十二万二千円)」。あのころは確かにバブルだったのである。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.69より



    ■第十三回 紳士の服装


    昭和初期、趣味の世界を手軽に理解したい人向けの人気シリーズ本があった。現在でも古書好きの間で有名な四六書院発行の「通叢書」である。

    「当代におけるその道の先達」が書いた叢書を一読すれば、「直ちに一個非凡な通人となり得る」と発刊の言葉は記す。「西洋音楽通」「日本料理通」などのほか、「銀座通」「喫茶とケーキ通」なんていうのもある。

    衣服に関する本も当然あり、女性向けの「洋装通」と並び、男性向けには「洋服通」がラインナップされている。著者はテイラー界の第一人者、上原浦太郎氏。序にはハリウッド俳優の早川雪洲が一文を寄せ、上原氏は洋服の歴史をひもときながら、流行の服や着方などを詳細に解説している。パイプを加えた男の挿絵に添えられた「ヤングメンに愛せられるニッカー・ボッカー」などの記述が時代を感じさせて楽しい。

    その「洋服通」に、洋行初期の服装にまつわるエピソードが紹介されている。明治維新で活躍、政界の大物でもあった土佐出身の谷干城が欧米視察のために洋行したときのこと。同郷出身で、坂本龍馬との会談などで知られる後藤象二郎が「西洋で流行している赤ズボンをぜひ」と勧め、谷は銀座の森村洋服店で調製し、得意満面で赤ズボンをはいて船に乗って大いに笑われたらしい。海外事情にみんなが疎かったころの話。

    同書は、昭和初期のお偉方のファッションチェックも行っている。ロンドンでの海軍軍縮会議に向かう若槻礼次郎元首相、財部彪海軍大臣の両全権を横浜大桟橋に係留する船で見た著者は、洋行用の服装を細かく観察。若槻については「オーバーコートは新調ではなく、二、三年着古した」もので「隠しボタンの縁は凸凹になっていて醜い」と厳しい。それに比べ「濃いオックスフォードのキャメル・フリーズのダブルブレステッドオーバーコート」の財部全権は「服装に最も厳しい山本権兵衛伯を父とするせいか」調和がよく取れていると評価している。いずれにせよ、谷の時代とは洋服を取り巻く状況が一変しているのが分かる。

    梅谷知世氏の「明治前期における洋行者の服飾」(服飾美学 第三十四号)によると、一八七一(明治四)年ごろまでは洋行者の出発時の洋装やその準備の様子が詳しく述べられているという。初期の洋行者は洋服を着たことがない人がほとんどで、モーニングコートの下に真っ赤なフランネルのシャツ、黒山高帽という珍妙な格好をした者もいたらしい。

    一九一九(大正八)年に出た上村知清著「米国旅行案内」は「軽装にかぎる」としているが、中身はというと「背広服2着、タキシード1着、フロックコート1着、燕尾服1着はぜひ共必要で、ネクタイ10本も用意」と説いている。「礼服は、平民的の旅行する場合、スモーキングジャケット(タキシード)ぐらい携帯せば十分」「夕食のおりにはスモーキングジャケット、和服ならば毎食羽織はかまを着用せばよい」などの記述が、当時の紳士の旅を髣髴させる。

    さて時代は一気に飛んで一九七○(昭和四十五)年。ジャンボジェット機が就航したこの年以降に爆発的に増える海外旅行は、紳士たちの旅装を本当の「軽装」に変えた。

    一九九三年の「地球の歩き方 安全・快適 旅の道具事典」は、好ましくない日本人の「典型的スタイル」にゴルフウエアの男性を挙げ、読者のこんな声を紹介している。「ロスの高級ホテルで見かけた日本人の中年男性。ゴルフシャツにドブネズミ色のジャンパーはなんとかしてほしい」。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.70より



    ■第十四回 世界一周(一)


    バリなどのリゾートにのんびりと滞在する旅、あるいは何らかの目的を持ってある場所に腰をすえる旅-。現代は一ヵ所で完結するスタイルが増え、周遊型の旅は減ってきている。

    しかし、少し前までは多くの国・地域を回る旅がごく一般的だった。海外旅行が一生に一度のハレの出来事でなくなり、欲張ってあちらこちらを見て歩かなくてもよくなったことが理由だろう。

    さまざまな場所をめぐり、いろんなものを見る。その究極の形が世界一周旅行だ。意外に思われるかもしれないが、近代日本の海外旅行史をひもとくと、「世界一周」はその初期には主流ともいえる旅の形だったのである。まだ海外についての知識が少なかった時代、何ヶ月もかけて世界を回った旅行者たち。その姿をみていきたい。

    世界一周と聞くと、まずジュール・ベルヌの小説「八十日間世界一周」を思い起こす人が多いのではないか。八十日間で世界を回れるかどうかの賭けをした英国紳士フォッグ氏が、「ブラッドショー大陸旅行案内」を持ち、召使いのパスパルトゥを従え、多くの冒険をこなしながら旅をする。ロンドンからスエズを経由し、インド、米国をめぐるが、通過地点には横浜も含まれており、日本にもなじみが深い物語だ。

    一九五六年には映画にもなり米アカデミー賞作品賞などを受賞した。ビクター・ヤングが手がけた優雅な調べのテーマ曲は、三十年続いたテレビの紀行番組「兼高かおる 世界の旅」のオープニングに使われた。この曲を耳にすると、旅情をかきたてられる人も多いことだろう。

    さて、この小説の時代設定は一八七二年。日本では維新後間もない明治五年に当たる。物語はベルヌの考えた架空の旅だがこの時期、実は世界一周の観光団体旅行は現実に成立していたのである。ベルヌはこれに触発されて物語を書いたとされる。

    ツアーの催行者は、かのトーマス・クック社。創始者であるトーマス・クックはもともと熱心なキリスト者であり、禁酒運動推進のために団体旅行を企画し、その時のノウハウが生きて世界的な旅行会社が生まれた。

    このトーマス・クック社、明治時代に日本人による世界一周パックツアーの企画も手がけた。朝日新聞の主催で一九〇八(明治四十一)年に実施された「世界一周会」である。これが、観光を目的とした日本初の世界一周ツアーとされる。

    ツアーの記録をまとめた朝日新聞の「世界一周画報」(同年発行)によると、総勢は朝日新聞記者二人を含む五十六人で、三人が女性。名簿には野村證券を立ち上げた実業家、野村徳七らの名前がみえる。一行は三月十八日に横浜を出港し、ハワイから米国本土を縦断、欧州、ロシアを経て六月二十一日に敦賀へ帰着した。実に「九十日間世界一周」の旅である。費用は二千円余。理髪料金が十銭の時代の話である。

    世間の関心も当然高く、「世界一周画報」には各界著名人の挨拶も掲載されている。これがすこぶる面白い。フランス大使「ジエラール氏」は、ロンドン滞在が二週間なのにパリが三日とは何事かと批判し、ベルリンは二日でも十分だ、などと文句を言っている。ドイツ大使「ムンム氏」は「世界一周会をやるそうな。実に結構な事じゃ」と、なぜか下町の隠居のような語り口調。

    この世界一周会と翌年の第二回については興味深いエピソードも数多く記録されている。次回は、携行品を中心に日本人初の海外パック旅行の詳細をみていこう。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.71より



    ■第十五回 世界一周(二)


    九十日間の世界ツアー中の日本人ビジネスマン五十七人が昨日朝、ニューヨークに到着した|。こんな書き出しの記事が、米紙ニューヨークタイムズに出ている。現在の話ではない。日付は一九〇八年四月十七日。今からちょうど百年前、明治四十一年春のことである。

    この一行こそが、前回にご紹介した日本初の観光パックツアー「世界一周会」の面々。首都圏と近畿圏が中心だが、青森、熊本など幅広い地域から実業家や議員、学校関係者らが参加した。十代から六十代まで年齢も幅広く、女性は三人いる。主催は朝日新聞社で、催行はトーマス・クック社。一行は三月十八日に横浜を出港し、ハワイから米国本土を縦断、ワシントンでルーズベルト大統領に謁見した後、欧州、ロシアを経て六月二十一日に敦賀へ帰着している。

    さて冒頭のニューヨークタイムズに戻ると、記事は日米関係などのお堅い話題に加え、彼らの服装についても報じている。

    まず女性。三人のうち、横浜の美術商野村美智子がツアー中、ずっと和服だったことをわざわざ明記している。ただ、和服についての細かな言及はない。彼女はアメリカ女性の着こなしを褒めていて、デパートでのショッピングを楽しみにしているのだと紹介されている。英語が堪能だったようで、記事内にかなりのスペースで登場する。好意的に書かれているが、名前が「NICHI」になっているのはご愛嬌だろう。

    一方、哀れなのは男性陣。その山高帽姿が古風極まりないと呆れられている。同紙は、彼らが普段和服を着ていて、今回のツアー参加のために日本で買った帽子は古いタイプしかストックがなかったのだろうと推測する。だからこそ、南北戦争以前に流行したモデルのものになったと同情気味だ。ちなみに南北戦争の終結は明治維新の直前。よほど奇妙な風体に映ったのだろう。

    ただ、この点に関しては主催の朝日新聞にも「責任」はありそうだ。女性には和服を許可したが、男性は洋服の着用を義務付けた。さらにフロックコートと燕尾服の持参まで求めた。欧米人になめられまいぞという気概は感じるものの、それが裏目に出てしまったわけである。一九〇八年秋に出版されたツアーの記録「世界一周画報」(石川周行著)にはそんな写真がいくつも収められている。

    さて、時代を画したこの「世界一周会」は一九一〇年に第二回が実施されているが、その狭間の一九〇九年にトーマス・クック社が独自に催行した世界一周ツアーがあった。参加者は六人と少なかったが、クック社と朝日新聞との関係からか、名物記者の渋川玄耳が参加し「藪野椋十 世界見物」という戯作風の読み物を残している。社会部長も務めた渋川玄耳は、夏目漱石を朝日に入社させ、石川啄木を高く評価した人物で、藪野椋十名で「一握の砂」の序文を書いた。同書では西洋について何も知らない田舎の隠居「藪野椋十」が、庶民目線で洋行を語るスタイルを取っている。

    船内でダンスを見て「地団駄踏む」といぶかる藪野翁。まさかに備えて葛根湯に按摩膏、熊の胆、短刀に論語、実印も携帯しようとし、さらに同行の「苔野」君に言われるまま、フロックコートから首輪(ネクタイ)まで西洋のものを山のように買い揃える。装着したハイカラーはお辞儀がしにくいと怒り、洋服は不自由千万と嘆く。その赤ゲットぶりはすこぶる面白いが、ここで紙幅が尽きた。以下、次号にて。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.72より



    ■第十六回 世界一周(三)


    前回、明治時代に刊行された「藪野椋十 世界見物」に少し触れた。一九〇九(明治四十二)年にトーマス・クック社が催行した世界一周ツアーに参加した朝日新聞名物記者による道中記である。

    筆者は夏目漱石や石川啄木と親交の深かった渋川玄耳。西洋のことなど何も知らない「藪野椋十」という田舎のご隠居を設定し、庶民の目線から洋行と西洋を紹介している。  日本人の海外旅行は、前年の一九〇八(明治四十)年に同社と朝日新聞によって初の世界一周ツアーが行われたばかりで、本書は海外旅行黎明期の姿をいささかの誇張を交えながら面白おかしく伝える。

    出立前、村会議員でもある藪野翁から準備を仰せつかった同行の「苔野」君は、化粧道具から名刺、鞄、ステッキ、フロックコート、帽子、首輪(ネクタイ)まで、西洋のものを山のように買い揃える。お会計は二人分でしめて千三百八十八円六十銭なり。

     これがどの程度の金額だったか。「物価の文化史事典」(展望社)によると、明治四十二年の有楽町の地価は一反百三十円。なので、約三千坪が買える計算になる。旅費ではない。あくまで携行品二人分なのである。

    細目を見ると、上質紙の日英両面刷りの名刺は、特別割引で一枚約三銭。葉書が二枚買える値段だ。驚く藪野翁に対し、苔野君は「せいぜい倹約して体面を維持するだけにとどめた」と言い、名刺に関しては「百枚五銭の紙に自筆で事足りるが、それでは外人に対して国辱になる」と脅し、翁も「忠義のためとあれば」と渋々納得する。

    買い物に関してぶつぶつ文句を言いつつ、慣れない洋服を着る藪野翁。手伝う苔野君は、翁の腰のあたりが盛り上がっているのに気づく。何かと思えば、ふんどしである。「みっともない」と言う苔野君に、今度は猛然と反論する翁。「ぎっしりと締まっておるが、ちょいと引けばポロリと解けて早速の早縄になる。陸上水中の働きに心得ておくべき男子第一の品物じゃて。他の品とちごうて外国にないものじゃから新旧十五本ほど用意した」と息巻く。旅は単なる観光ツアーにすぎないのだが、国を背負う日本男児の気概が噴出する場面である。

    さて、このふんどし、往時の世界一周旅行記などに頻繁に登場するのが興味深い。時代は大正に下るが、漫画家の岡本一平が絵入りでしたためた「世界一周の絵手紙」(磯部甲陽堂)にも、二十五本を鞄の中に詰めたという記述が出てくる。

    一平は「芸術は爆発だ!」の岡本太郎の父親であり、作家岡本かの子の夫である。こちらも西洋のさまざまなものを周囲に持たされて閉口したり、面白がったりしている。例えば寝巻。家人に薦められて着せられたのは、頭から被るナイトドレスタイプ。一平は「ゲッセマネの園で天父に祈るキリストのようだ」と話し「こりゃあ、神々しくていい」と感想を述べる。見たこともない物に囲まれる中、ふんどしは気持ちが安定する携行品だったようだ。

    さて、さらに時代は下がって一九二八(昭和三)年に出た三宅克己の「世界めぐり」(誠文堂)。この旅行指南書にはふんどし携行の際の注意点が述べられている。いわく「ふんどしやさるまたは外国では用いないので、いろいろな失策や笑話を残すから注意するがよい」。越中ふんどしは便利と認めた上で、シベリア鉄道でふんどしをヒラヒラさせて汽車を止めた友人の話を紹介、「赤い国の白旗は禁物」とユーモアたっぷりに締めている。いささか尾籠な話となった。失礼のほどお赦しを。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.73より



    ■第十七回 男の必需品


    前回は、明治から昭和初期にかけての世界一周の旅を振り返り、日本男児の必需品ふんどしを取り上げた。今回もこの和製アンダーウエアから始めたい。ただし、時代は一九六〇(昭和三十五)年前後、六四年の海外旅行自由化を前にしたころのお話。

    「あなたは突如、海外旅行を命ぜられたのである」。

    そんな言葉から始まるカッパブックス「じゃぱん紳士」(光文社、一九六一年刊)は、学習院大助教授の早川東三氏(後の学習院大学長)によるちょっとくだけた海外旅行指南書。まず、海外へ何を携行するかで悩むグッズとして下着が登場する。

    「気の弱い人物なら、まずパンツをはいて行こうか、それとも日本古来の長尺物布製品にしようかと、三昼夜くらい苦慮するかもしれない」。まえがきからいきなりである。高度成長期のこの時代にも、ふんどし愛好者はそこそこいたことの証明だろう。

    さらにふんどし話はヒラヒラと続く。例えばこんなエピソードだ。日本から来たある留学生に惚れたドイツ娘、彼の洗濯物をクリーニング店に運び、戻ってきたものをタンスに入れている。その彼女が「日本人は合理的」と感心していて、何のことかと聞くと、ナプキンも紐をつけてこれくらい長くすると膝も胸も覆えるわね、とかの布製品を見せたそうだ。その後、彼女はすき焼きを食べる際に「あのナプキンを使わせろ」とせがんだらしい。

    それだけでも閉口する話だが、パリパリにのり付けされたこのふんどしを本来の用途として使ったところ、全然心地よくなかったというのがオチ。

    「じゃぱん紳士」はこんなエピソードを満載、日本男児のアバンチュールも紹介している。サブタイトルはずばり「夜のエチケット教科課程」。自由な観光旅行ができなかった当時、海外へ出るのはビジネスや留学のほか、視察や会議ぐらいだった。女性の社会進出は進んでおらず、洋行者はいきおい男性がほとんど。男性向けのこうした本が出版される時代の要請があったわけだ。

    さて、この本には男性向けグッズとしてコンドームも登場する。ヨーロッパでは公衆トイレで購入できたという「ゴム製品」、ある会社員がパリで購入し、うっかりそのまま帰宅して妻に見つかってしまった。「珍しいと思ったのでみやげにした」と苦しい言い逃れをしたが、三個入りのうち一個を使っていたことがばれ、しかも「メード・イン・ジャパン」の印刷があったため、最初からそのつもりで日本から持参したのだろう、と誤解され詰られたという話。さぞや、この御仁、日本製品の優秀さと輸出産業の隆盛をうらめしく思ったことだろう。

    このゴム製品だが、当たり前のことながら、トラベルグッズとして普通のガイドブックや旅行記にまず出てこない。そんな中、堂々とこれを記述しているのが、石原慎太郎氏の「南米横断一万キロ」(講談社、六〇年)である。五八年、若かりし現都知事は、出身大学である一橋大自動車部の面々とスクーターで南米を旅する。出発前、石原氏は同行する学生たちの母親に「薬品だけではなく、突撃一番的用品も員数を合わせてある」と説明し、それが大いに不評を買う。

    「突撃一番」とは、戦時下で兵士らが用いたゴム製品のこと。これをコンドームの代名詞とするのが何とも石原氏らしい。旅先での色恋は若者につきものだが、母親にとっては、はるか南米での息子たちの行状が心配でならなかっただろう。

    今回も下の話で失礼。ただ、御不快でなかったら、次回も昭和期の洋行艶聞とその携行品の話にもう少しお付き合いください。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.74より



    ■第十八回 男の携行品ト


    もてた、もてたと言いたがるのは男の常。ただ、たいていの場合は「昔は」などの条件がつく。そんなモテ話の一つが「海外では」だ。誰もが海外旅行に出かける現代、ほらはすぐ見抜かれてしまうようになったものの、洋行という言葉が生きていた時代は、結構そんな話が通用していて、そこに「男のロマン」もあったようだ。

    まずは〇七年に百二歳で亡くなった音楽家、高木東六のエピソードから始めよう。高木は、戦争を知る世代にとっては名曲「空の神兵」「水色のワルツ」の作曲者として、中年世代にとってはテレビ番組「家族そろって歌合戦」の審査員としてなじみがある人物だろう。その彼が、一九六九年に自伝「とうろく・らぷそでぃ」(サンケイ出版、後に中公文庫)を出版している。自伝といっても、若いころの女性遍歴をつづった異色のもので、ここに出てくるのは欧州でやたらと女性にもてた挿話の数々である。

    一九二八年、高木は音楽を学ぶためにパリへと向かう。船は欧州航路で活躍した日本郵船の香取丸。その船内で高木はいきなり、イタリア人女性に誘われる。彼女はミラノの中学校の教師で、しかも船内で高木がフランス語を習っていた年上のひと。童貞だった高木はこの女性と深い仲になるのだが、きっかけはなんと春画なのである。

    ある日、高木は老紳士から部屋の鍵を渡される。イタリア人女性と入ってみると、そこは妖しげな浮世絵の世界。特に強烈だったのが「殿さまと御殿女中」という春画だ。その浮世絵に釘付けになり、教師と生徒の関係だった二人はそのまま…というお話。春画コレクションは船会社が用意したものとは思えず、誰かが長い船旅の無聊を慰めるために持参したに違いない。こうした品も優雅な時代のトラベルグッズだったのだろう。映画のワンシーンのようである。

    艶聞はパリ到着後も続く。お相手は人妻、ウエートレス、学生と次から次。ただ、若いころの高木の写真を見ると、とても可愛らしく、ほら話ではなく本当にもてたのだろう。

    さて、この本での房事はいきなり始まるのが特徴。とても避妊具を着けている暇などなさそうで、必需品であるコンドームの話は一切出てこない。一方、用意周到にコンドームを準備していく男たちもいる。その洋行者たちのほとんどは、胸を高鳴らせて渡欧したものの、高木と異なり、甘い夢を結ぶことはさほどなかったようである。

    六〇年、ホテル事情調査のために欧州旅行に出かけた視察団の一人、湯沢光行の「世界の夜と昼」(河出書房新社)。東京オリンピックに備える旅だったが、「夜の観光もおおいに探訪」がもう一つの目的だった。

    明治生まれの湯沢は五十代。道を歩く女性に手真似で「一杯、飲まないか」と誘ってふられたり、夜の街を徘徊したり、日本男児は元気いっぱいである。当然、そんなにはもてない。ただ、羽田を発つときに悪友たちの「心からのプレゼント、日本製鉄兜」をトランクのかくしにしまい、いざというときにポケットにしのばせたそうだ。

    前回、「突撃一番」を紹介したが、この「鉄兜」も軍隊用のコンドーム、衛生サックである。ただ、湯沢は軍隊経験があるだけに、鉄兜を比喩的に用いたのだろう。「値段が語る、僕たちの昭和史」(主婦の友社)によると、日本製コンドームは明治末の一九〇九年に発売されており、六〇年ごろにはさまざまなバリエーションが出るようになっている。それにしても、当時のJTBの雑誌「旅」を見ても、「夜の観光」が堂々と記録されている。それが時代なのだろう。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.75より



    ■第十九回 戦時の旅


    二〇〇五年刊行の「日本・欧米間、戦時下の旅」(淡交社)という著作がある。第二次世界大戦下、外交官や新聞記者、軍人、芸術家ら多彩な職業の日本人が、さまざまな理由で欧米と日本を往来していた。本書はその旅を膨大な文献から丹念に掘り起こした労作だ。著者は日本を代表する呼吸器疾患の専門医、京大名誉教授の泉孝英氏。

    「日本人が欧米に出かけることが困難だった時代」に焦点を絞り、欧州在留邦人の引き揚げから日米、日英交換船、シベリア経由の日欧連絡路、イタリアやドイツ降伏時における避難行、占領下日本からの洋行など、人物やルート、移動手段、宿泊先を克明に記し、一種の事典に仕上げた。

    綴られているのは、退避などのやむにやまれぬ旅がほとんどだが、中には異色の旅、戦時下における親善旅行や見学旅行もある。そのひとつが、東京工業大学建築学教室の田辺平学教授による防空見学旅行である。

    戦争中の欧州各国の防空施設を視察するため、田辺教授は一九四一年四月に東京を出発し、同年十月に帰国した。「大東亜戦争銃後の為に何等かの参考になれば」と、その旅を「空と國」(相模書房、一九四三年)にまとめた。サブタイトルは「防空見学欧米紀行」。これが読み物として実に面白い。以下、携行品の準備を中心に見ていこう。

    助教授らからの熱心な薦めで「戦時下の外国旅行」を決意した田辺教授、欧州からの帰国者にアドバイスを求める。

    返ってきた答えは、託された手紙は持たない、紹介状などは開封のままにする、日本語で手帳に書かない|などだった。スパイ扱いされないための心得集とでもいうべきだろうか。

    さらにドイツ帰国者からは、食料や衣料が切符制であることの注意を受け、トラベルグッズに関する細かな助言をもらう。

    服はモーニングの代用になるシュトレーゼマン(男子社交服)やワイシャツや石鹸、ちり紙など一切を日本から持って行く。医薬関係では絆創膏にマーキロ、下痢用の葛などと並び、バイエルのアスピリンも必需品に入っている。ドイツに行くのにバイエルの薬の持参を求めているのが、この旅の特殊性を物語る。そんな中、「車中の退屈しのぎには飴」という忠告がおかしい。

    渡航前、田辺教授が最も閉口するのがビザ取得の類である。戦時下であるから同盟国であるドイツでもイタリアでも、そうは簡単には下りない。特にソ連の通過証は、十二回も大使館を訪問し、出発直前で許可された。

    かくして決意から九カ月、田辺教授は黒背広の上下と日の丸バッジという姿で欧州へと旅立つ。この後、実に波乱万丈に満ちた旅が待ち受けているのだが、これはまた別の機会に紹介したい。

    さて、田辺教授と同時期に異色の欧州旅行をした女性がいる。山田わかである。だまされて米国の娼館に売られ、救い出された後は平塚らいてうらとともに女性解放運動に携わった評論家。「サンダカン八番娼館」の山崎朋子氏が彼女の生涯を「あめゆきさんの歌」という評伝にまとめている。

    その山田がドイツ・イタリアの親善旅行をしたのが「戦火の世界一周記」(主婦之友社、一九四二年)である。ナチスドイツに献身する女性たちを褒め称える文章で埋め尽くしているが、和服姿の山田の写真がいくつも載っている。羽織に興味を示すドイツの子どもに家紋の説明をするところが面白い。

    冒頭に紹介した「日本・欧米間、戦時下の旅」には、ホテル別の索引がある。本誌の読者にはこれも楽しいかもしれない。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.76より



    ■第二十回 女性の冒険


    新潮社から出ている隔月刊誌「旅」は、もともとJTBが発行していた旅行雑誌だった。歴史は古い。創刊は一九二四(大正十三)年である。バックナンバーは、財団法人日本交通公社が運営する「旅の図書館」で読むことができるが、この雑誌のページを繰っていくと、日本人の旅の変化を実感することができる。

    洋行の記事も実は戦前から登場するが、もちろん、それはあくまでも憧れの存在にすぎなかった。手を伸ばせば届きそうな近さにまでおりてくるのは、六四(昭和三十九)年の海外旅行自由化以降である。この時期になると、雑誌「旅」にも海外旅行に関するさまざまな企画が増えてくる。

    そんな記事の中で特にユニークなのが、六○年代半ばに掲載された異色座談会「男の香港・女の香港」である。二十代から三十代の未婚、既婚の男女各四人ずつが、男女に分かれて香港の魅力を語り、その様子をページの上下に分けて掲載している。この特集で驚かされるのは、男性陣があっけらかんと語るセックスの話題だ。そもそも見出しからして「賭け事と女性が最大の魅力!」である。

    三十二歳の会社員が言う。「(女性を)ホテルへ呼んでくれるとあとで聞きましたが、そういうケースがあるのなら、最初に聞いておけばよかった(笑)」。

    さらに二十九歳の自営業者は続ける。「僕の相部屋の人が薬屋さんなんです。彼はいろんな薬を持ってきましたよ」。これを受けて「台湾の方が安くてサービスがよい」だの、「今回は見るだけだったが、今度は腰を落ち着けて楽しむ」だの、けしからん会話がえんえんと続く。

    これが日本を代表する良識派旅行雑誌かと思うのだが、やはり時代が決定的に違うのである。女性たちの座談会でも「同行の男性が、なんかいいことをなさったんじゃないか」などと、実に鷹揚である。

    売春防止法の施行によって赤線が廃止されたのが、一九五八(昭和三十三)年。それからまだ、数年しかたっていない。買春がまだごく普通のことだった時代の話だからこそ、雑誌「旅」にも海外アバンチュールの話が堂々と登場するわけだ。

    以前にも紹介したが、この時期に刊行された旅行ガイドブックには、外国人女性との「交際」をめぐる男性へのアドバイスがたくさん出てくる。

    ただ、ごくごく例外的存在として、世界をまたにかけて男をハンティングする女性もいた。その代表格が、銀座のクラブに勤めた経験のある作家、豊原路子である。彼女の破天荒な生き方は、遠藤周作の「現代の怪人物」(桃源社)でも一章を割かれている。

    豊原には「マンハント」「世界の男グルメ・裏のウラ」など数々の著書があるが、今回は「体当たりマンハント旅行記」(一九六一年、第二書房)をみてみよう。

    国内旅行を我慢し、お金をためて出かけた香港旅行。目的はずばり、マンハント(男探し)である。「訪問着」姿の豊原は、羽田空港でハンサムな欧米人に出会って胸を高鳴らせる。「一緒に座りましょう」と言ってくれないかと期待するが、そこで飛行機に自由席はないことを知り、「天をうらむ」のである。

    香港着後は日本ムスメを強調する着物を武器に、さまざまなタイプ、国籍の男と関係を結んでいく。

    女性のアバンチュールものは、数が少ないだけに貴重である。というわけで、次号も女の冒険にもう少し、お付き合いいただきたい。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.77より



    ■第二十一回 女性の冒険(2)


    東京都世田谷区八幡山にある大宅壮一文庫は、評論家大宅壮一(一九○○〜七○)が遺した資料を基に設立された民間の図書館。「駅弁大学」「恐妻」などの造語で知られ、ノンフィクション賞に名を残す大宅は、戦後のマスコミ界を代表する人物だった。その大宅文庫は大衆向けの雑誌が中心で、教養主義的な公共図書館とは異なり、人間の生々しい欲望が表れた世相を知るための貴重な図書館として、ジャーナリズムの関係者を中心に広く利用されている。

    独特の記事仕分け方法は大宅式分類法と呼ばれ、大部な総目録の件名項目を眺めているだけでも楽しい。その目録のカテゴリー「海外旅行」の下に並んだ小分類を見ると、なんと「ハレンチ旅行、ピンク旅行」という項目があり、数多くの雑誌記事の見出しが時代順に出ている。

    「七つの海をまたにかけたエロチックアニマル奮戦記」といった記事の見出しを順番に眺めていくと、戦後の日本人、特におじさんたちの行動が海外で顰蹙を買った歴史が手に取るように分かる。ただ、六○年代後半から、おじさんだけではなく、女性の旅先での行動についての記事も増えてくる。記事のいくつかを見てみよう。

    アサヒ芸能の一九七二年一月二十日号は「大和撫子がまたも海外でやってきた恥ずかしいこと」というタイトルで、年末年始に海外旅行に出かけた女性たちの姿をリポートしている。

    まずは欧州旅行での話。添乗員氏はパリで三十歳すぎの女性二人に「男の人たちばかり旅を楽しんでケシカラン。私たちにも若い男性を紹介しろ」と言われ、「半ばそういうのを『仕事』にしているテアイ」を紹介したという。

    同誌はグアムやインドなどでの日本ムスメの行状を、「正月の晴着の淫乱緞子の帯解きながら、海外を突っ走る大和撫子たち」とあまり品の良くないダジャレで表現している。

    もちろん、雑誌が雑誌だけにおもしろさが優先している部分が多いはずだが、七○年にジャンボジェットが就航して海外旅行が大衆化したこの時期、同種の記事がいろいろな雑誌に登場してくるのは事実。たとえば、週刊サンケイの一九七三年十一月九日号の記事もすさまじい。タイトルは「座談会 独身女性海外マンハント突撃記」。

    四人の出席者のうち、旅行代理店勤務のAさんは「パンタロンが似合うグラマー」で、ギリシャの浜辺で体験した「緩急自在な指」の素晴らしさを語る。「ゴーゴー好きの現代っ子」の証券会社に勤めるDさんは「北欧の男って特に弱い」「下手」と酷評した上で「セックスアニマルっていわれるのも、男性の罪ばかりとはいえないわけね。私たちもウンと反省しなくちゃ(笑)」と、全く反省している様子はない。

    この記事にも添乗員氏の証言が出てくる。周遊型団体旅行が中心だった当時、ヨーロッパ旅行だとローマが日本に帰る前の最終地だったため、「ここであせりだす」女性が多いそうだ。団体旅行だと時間も自由にならず、座談会の結論も「今度行く時は絶対一人で」。海外で遊んだ後は「純情な相手を見つけて結婚する」というのがオチ。

    週刊文春で連載され、それをまとめた玉井勝美の旅行指南書「海外旅行 その手にのるな」(一九七三年、二見書房)は「夜のお遊びはほどほどに」という一章を設け、男女別に注意を与えている。

    女性向けには、イタリア男に気をつけろとくどいほど書き、イタリアの男性が数人でお茶を飲んでいる一枚のスナップを載せている。そのキャプションは、「てぐすねひくイタリア男」。それは…あんまりな言いようじゃないですかね。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.78より



    ■第二十二回 夜のガイドブック(1)


    ガイドブックは海外旅行の必携品。観光名所からホテル、レストラン、交通機関まで幅広い情報をカバーし、現地語の簡単な会話集もついている。詳細な歴史解説など、その国・地域の総合案内と呼べるほどの旅行ガイドもある。一つの趣味に絞り込んだものも数多く出回るようになったが、特化したガイドブックとして意外に昔からあるのが男と女をめぐる案内書。今回は、戦前に洋行ブームと呼ばれた昭和初期に刊行されたこの種の旅行ガイドをみてみよう。

    一九二九(昭和四)年に出た「夜の倫敦巴里紐育」(欧米旅行案内社)は、ずばり、欧米でのナイトライフに焦点を絞った本である。冒頭に「ロンドン巴里紐育は刺激の三大都市である」とあり、「甘かるべき筈の刺激を辛く錯覚して、宝の山に入り宝珠を拾いながら我が物とし得ない不感性の間抜(け)洋行者が少なくない」と意味深に言う。その上で「世界刺激の三大都に於ける夜の刺激と昼の刺激とを説いて洋行者の実用便宜に供する」と頼もしく宣言する。さらに同書は「無責任な漫談式のもので無く、洋行者が必ず経験する刺激に就いての有りのままの予備的説明」とも述べている。

    さて、目次を見ると「活動写真館入口の不良少女」「シャンゼリゼの天女の口説」「酒場にロンドン女の醜態」「性業婦人の住所を知る方法」といったタイトルが並ぶ。その多くは、売春にまつわるマニュアル、危険回避術といっていい。例えば「タキシイへ連れ込む怪美人」の章。ニューヨークのセントラルパーク周辺を散歩していると突然自動車が近づき、中から米国人女性が「サア早くお乗り遊ばし」と声を掛けてくる。女性は若く美しい。さて、そのような事態にぶつかったとき、いかに対応すべきか?

    若者を中心とした欧米風俗の描写もある。「活動写真館内のキッス自由席」では、パリには映画を見ながら恋人同士が抱擁し合える特別席が用意されていることを披露しつつ、それ以外の都市でも上映中に男女のキスが絶えないことを記し「パット明るくなって驚いて口を離す愛嬌者も往々見受ける」とお茶目に紹介している。

    著者は瀧本二郎とマダム・ブレスト。二人は夫婦のようで、船上で寄り添う写真が口絵に掲載されている。ただ、日本男児と欧米女性との結婚は周囲の無理解もあり大変だった様子で、本書の「欧米婦人との同棲」の章で瀧本さんは、ほとんど愚痴のような苦労話をたっぷりと語っている。

    さて、この著者は「欧米漫遊留学案内」「千五百円三カ月間欧米見物案内」「正しい洋服の着方と洋食の喰べ方」など、海外事情に関する著作を数多く刊行している。性や売春については「世界性業婦制度史」があり、「夜の倫敦巴里紐育」はその中間領域の仕事といえるだろう。

    そして、もう一人、欧米でのナイトライフを自らの足で書いた人を紹介しよう。道家斉一郎である。「経済統計学」などの著書があり、専修大学総長、衆院議員を務めた経済学博士だ。ただ、社会問題としての売春に関心があったようで、日本や世界の売春事情を統計的にとらえた一九二八(昭和三)年の「売春婦論考」(史誌出版社)の著者としても知られる。

    その道家が東京市から欧米に派遣された都市行政視察の際、夜の時間を使って巷を探訪した記録が一九三○(昭和五)年の「欧米女日記」(白鳳社)。各都市のプロの女性を訪ね歩いたルポで、伏字だらけの本である。しかし、これがすこぶる面白い。欧米の売春宿で、道家先生は刀を振り回したり、啖呵を切ったり、実に大胆である。先生の冒険譚、詳細は次号にて。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.79より



    ■第二十三回 夜のガイドブック(2)


    戦前に洋行がブームだった昭和初期、男性向けのナイトライフ案内書が出たことを前号で紹介した。一九二九(昭和四)年の瀧本二郎、マダム・ブレスト共著の「夜の倫敦巴里紐育」(欧米旅行案内社)は、魅惑の三大都市で夜の女性に接する際のマニュアル、危機管理術を取り上げた本だった。

    南満州鉄道(満鉄)に勤務した瀧本は、欧米への旅行、生活、留学などに関するガイドブックの執筆で知られるが、他方、一九二七(昭和二)年の「世界性業婦制度史」(大同館書店)や「欧米避妊法批判」の刊行など、性にまつわる研究家、運動家の顔も持つ異色の人物。その瀧本同様、特に売春制度の在り方に強い関心を抱き、貴重な記録を残したのが経済学者の道家斉一郎(一八八八〜一九四二)である。

    その道家が東京市から欧米に派遣された都市行政視察の副産物といえる本が、一九三○(昭和五)年に出た「欧米女見物」(白鳳社)。視察の合間を縫って「夜七時から朝七時までを自分の時間」として夜の女性たちを訪問し、睡眠時間を削ってその実態を探ったルポルタージュである。

    執筆の動機は「(第一次)世界大戦以後乱れた欧米の社会状況に関する欺かざる記述を資料として永遠に残す」ためだという。それにしては、タイトルからして刺激的なのだが「標題そのものも内容も、も少し徹底的に資料として書きたかった」と悔しがり、本の販売戦略上、仕方がなかった旨を何度も述べている。また「こうした方面の描写がややもすれば淫奔の一言で酬いられがちなことは甚だ遺憾」とも語り、事実を記録するために「可成の危険と時間」を費やしたと力を込めている。

    実際、本書を読み進めると、本当に危険を冒しているのが分かる。それはどうも、学者とは思えないほど大胆な道家先生のパーソナリティーに負うところが大きい。例えばハワイの一夜。警察官の検査だと言われて店から追い出されたことを信用せず、店のドアを蹴ったり大声を上げたりして騒ぎ、「腕力なら腰の弱いアメリカ人のことだ。年はとっても柔道四段の手前大したひけもとるまい」と、日本精神を燃えたぎらせる。

    オランダでは金をめぐって女性と言い争い「ボクサーなど恐れる俺では無い。日本の柔道で殺してやるぞ!」などという。

    以下、とても面白いのでそのまま引用する。

    「ボクサーは此のホテルにいるに違いない。女とぐるになって客から金でも巻き上げる気なのだろう。よし! こいつは面白いと(中略)いきなり腰に提げていた短刀を引き抜いた。夜の探検の時はいつも用意して胴じめにさげていたのだ。ピストルも持っていたのだが、これは英国へ上陸する時サウザンプトンの税関で携帯許可証を持っていなかった為に取り上げられてしまった」

    短剣にピストルって。往時の洋行記はずいぶん読んできたが、なかなか登場しないトラベルグッズである。このように、トラブルもものかは、欧米の歓楽街をひたすら歩き回る。

    ただ、道家先生の名誉のために付け加えると、病気への恐怖と夫としての義務から「実行は決してしない」と決めていたようで、話を聞くだけで女性のもとから立ち去ったということらしい。

    道家は、一九二八(昭和三)年に浩瀚な「売春婦論考」(史誌出版社)も出版しているが、本業は専修大総長も務めた経済学者。東京市会議員を経て衆議院議員にもなり、「反軍演説」で有名な斉藤隆夫を厳しく批判した「何故に斉藤隆夫君は懲罰に附せられたる乎」という小冊子も出している。

    「欧米女見物」は四百ページ近くあるが、一気に読んでしまえるほど面白い。ただ、内容が内容だけに、伏字だらけなのが本当に残念である。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.80より



    ■第二十四回 サングラス


    今回は南洋への旅。まずはこんな奇妙な詩から始めよう。

    「南洋の群島は黄金の国だ。四時花咲き実を結ぶ国だ。土を掘れば、金、銀、宝玉」「南の国は自由の天国だ。重箱詰めの法律がない」「南国は恋の国だ、美人の国だ。島の娘はみんな優しい」

    一九三三(昭和八)年に出たガイドブック「南洋旅行案内」(伊藤友治郎編、南洋専修学校出版部)の冒頭にある詩である。香港からジャワ、オーストラリア、ニューギニアまで、各地の現況を解説し、航路や渡航者に必要な手続きなどを紹介している。旅行案内と称してはいるが、もちろん、帝国日本の南方政策とリンクしており、南洋諸島の素晴らしさを説き、移住を推進するための本であるといえる。

    それにしても、冒頭の詩で描かれる南洋はすべてがバラ色である。中には「裸で跳ねられる、はらづつみが打てる」という表現もある。安楽さを強調したいニュアンスは出ているが、これが果たして人を惹きつけるのかどうか。微妙である。

    南洋が天国のように描かれることは当時の日本の国策と切り離すことができないが、人々に素朴な憧れが存在し、南の国に甘い夢を見続けたこともまた、事実である。

    無数の島影、波間のトビウオ、椰子の林、甘い香りの果物、南天のサザンクロス、エキゾチックな娘たち…。明治以来、数多く出版された旅行記やガイドブックには、ロマンチックな記述がてんこ盛りである。

    そんな本の著者の一人が、作家で官僚出身の政治家、鶴見祐輔(一八八五〜一九七三)。旧制一高時代に教えを受けた夏目漱石の英語の授業が、幼少からの南の島への憧れを加速させた。紺の背広姿の漱石が最初の授業でスラスラと読み上げたのは、「宝島」で知られるスティーブンソンの「南海千一夜物語」だったという。その鶴見が一九一七(大正六)年に出した「南洋遊記」(大日本雄弁会)は、詩情あふれる出色の読み物だ。

    鶴見は官僚だった一九一五(大正四)年十月、マレー半島からフィリピン、ベトナム、ジャワなどを巡る四ヶ月間の公務の旅に出る。出張の理由は「英文東亜案内」第五巻、南洋の巻のための実地調査。「英文東亜案内」は、満鉄や鉄道院の総裁、さらに閣僚も務めた後藤新平が音頭を取って編纂したアジア全体をカバーする浩瀚なガイドブック。ドイツのベデカーをお手本にしつつ、文化に関する記述を充実させたという。ちなみに鶴見は後藤の女婿に当たる。

    「南洋遊記」では、鶴見の流麗な文章が堪能できるが、南国へ向かう旅支度の具体的な記述も興味深い。南洋行には「頭の準備、体の準備、財布の準備」が必要だと説く鶴見が、体の準備で挙げる必需品が、風邪薬。「南国には寒さに対する設備がない」からだという。帽子や雨傘、白服なども列挙されるが、当時の他のガイド本ではまず目にしない品もある。サングラスである。

    「馬尼刺(マニラ)行きの船の中で、米国人に注意されたので上陸早々買った。熱帯地は光線の反射が強いから、之を調節する色眼鏡が要る」。そして、「『色眼鏡で物を見るな』とは、温帯地の人間にのみ通用する真理である」と書いている。

    大正初期からサングラスはさまざまな種類があったらしい。「西貢(サイゴン)の仏蘭西人は眼の前と左右と三方を覆う濃い紫色の眼鏡をして居るのもある。また黒眼鏡もある。しかし、一番いいのは茶褐色の眼鏡であろう。これは黒眼鏡のように陰気でなくていい」。

    当時の南国旅行を髣髴させるリポートである。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.80より



    ■第二十五回 「和蘭夫人」


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.81より



    今回も南洋の旅に出る。
    前回は鶴見祐輔が書いた「南洋遊記」(1917年、大日本雄弁会)に出てくる「色眼鏡」を紹介した。つまりサングラスである。「南洋遊記」を読むと、大正時代には既にさまざまなタイプのサングラスが出回っていたことが分かる。欧米人が東南アジア旅行の際の必需品とした色眼鏡に関する記述は実に興味深いが、この本にはそれ以外にも往時の魅力的な話題が数多くある。もう少し、この旅行記と付き合ってみよう。

    後に政治家として活躍、戦後は鳩山一郎内閣の厚相も務めた鶴見だが、当時は鉄道院勤務の官僚。1915(大正4)年、マレー半島からフィリピン、ベトナム、ジャワなどを巡る四ヶ月間の旅に出たのは「英文東亜案内」のための取材旅行だった。

    「南洋遊記」は、鶴見自身が巻頭に「興味本位」と書くように、現地調査のオマケとも言える旅行記であり、それだけにのびやかな筆致で当時の東南アジアを活写している。その鮮やかな記述の数々は「プルターク英雄伝」の翻訳などで名文家として知られる鶴見の面目躍如といったところだろう。

    さて、鶴見は本書でホテルについても詳述している。ジャワ滞在の中から一つ、紹介しよう。バタビア(ジャカルタ)の「ケマヨラン駅で車を降り辻馬車を賃して」向かったのが、ホテル・デ・ザンデス(このホテル、ご存じの方があればご教示を。大正5年の大阪毎日新聞のジャカルタに関する記事には『一番善いのはホテル、デ、ジンド』という記述があります)。

    庭園は巨木が鬱蒼と茂り、一万坪もあろうかというホテル。南国の自然の色にあふれ、「棟割り長屋」風に建てられた客室は清潔で美しい。ベランダには「木机の上にインキと紙、美しい木卓には純白な磁器が敷きつめて」あり、部屋には白い蚊帳、ロッキングチェアーなどくつろぎのための備品が充実している。これまで泊まった中では、サンフランシスコのフェアモント、ベルリンのアドロンと並ぶと激賞する鶴見は、快適なベッドの上に「長さ5尺ほどの丸い枕のようなもの」を見つける。
    これが南洋名物のダッチワイフ、つまり抱き枕である。

    鶴見は「夜中涼を保つために抱いて寝る」と簡単に書いているが、日本からの旅行者には珍しかったようで、多くの人が旅行記で触れている。1906(明治39)年、視察のために東南アジアを訪れた鉄道家の村上彰一は、「暑気除けの要具」(「南遊雑記」)と説明した。

    竹などを円筒形に編み上げ風通しを良くした古代中国からある抱き枕「竹夫人(ちくふじん)」と同じようなものだが、同地がオランダ領として長かったためにこう名付けられたらしい。ちなみに竹夫人は竹奴ともいうそうだ。

    このダッチワイフ、戦前のジャワ旅行記には「和蘭夫人」「和蘭女房」という名前でも出てくる。和蘭=オランダ、夫人=ワイフでそのまんまだが、現代のダッチワイフを連想しなくとも、十分に生々しい。1936(昭和11)年に出た安藤盛著「南洋記」(昭森社)は「ダッチワイフを抱く夜」という意味深な一章を設けている。

    ただ、涼を求めるだけでなく、おなかを冷やさないためのものもあったようで、1913(大正2)年6月22日付の大阪朝日新聞は「綿でも入っているのかフワリフワリしている。腹に当てて眠れば寝冷え、腹痛更に起こることなし」と紹介している。ただ、「朝目があくころには始終ベッドの下に折角のワイフが落っこちている始末」と書き、和蘭夫人を笑いものにしているのが実に罰当たりである。


    ■第二十六回 「膝栗毛」


    十返舎一九の「東海道中膝栗毛」といえば、江戸時代を代表する滑稽本である。誰もが知る古典文学の一つだろう。

    弥次郎兵衛と喜多八(北八)の二人が巻き起こす珍道中は、時代や設定を変え、さまざまなバリエーションの小説や映画、演劇となってきた。そんな作品の一つが、「安愚楽鍋」などの作品で知られる戯作者、仮名垣魯文(一八二九〜九四)の「西洋道中膝栗毛」である。

    時代は明治の初め、弥次喜多の孫が、横浜の大商人の指示でロンドンの大博覧会へと赴くストーリーだ。二人は、カイロで馬車から落ちたり、マルタ島で偽の真珠をつかまされたりと数々の失敗を繰り返しながら、おかしな旅を続けていく。

    作者の魯文は洋行の経験がなく、福沢諭吉などの西洋事情案内を参考に物語を作ったが、庶民が欧米を旅する物語は幅広い層の洋行への憧れを駆り立てた。

    そもそも「膝栗毛」とは、膝が足、栗毛が馬を意味する。すなわち、徒歩での旅行を表現しているのだが、それが二人旅やグループ旅行での珍道中を指すものになった。海外旅行記においても「○○膝栗毛」といったタイトルの本は何冊も出版されている。いずれも赤毛布(ゲット)、つまり、海外旅行初心者の失敗談に満ちた集団での旅行である。

    そんな膝栗毛ものの中でも特に紹介したいのが、一九二八(昭和三)年に出た「異国膝栗毛」(現代ユウモア全集刊行会)である。

    作者は画家・漫画家の近藤浩一路(一八八四〜)。東京美術学校(現東京芸大)を卒業後、読売新聞社で漫画記者として活躍、その後は独特の水墨画を描く日本画家として知られた。その近藤が一九二二(大正十一)年に初洋行した際のエッセーをまとめたのが「異国膝栗毛」で、その最大の特徴は船に乗り込む出発までの日々がやたらと長いことである。

    画家仲間とヨーロッパへ旅することになった洋食洋服嫌いの近藤画伯。旅の二ヶ月前に洋行下稽古を思い立つ。まずは、日本風と洋風に分かれた名古屋ホテルに行き、外国人用の施設に宿泊する。当然、勝手が分からず、西洋風呂に入る際は、自分の手ぬぐいを提げ、おまけにそれを肩にかけようとして、風呂番(バスボーイ)から注意される始末。

    その後、妻にたしなめられながら三越でトランクを買い、パン食の稽古も始めるが、ネクタイがうまく締められずにかんしゃくを起こして首を締め過ぎたり、ディナー用のエナメルのシューズに丸善で買った特価の帽子、ステッキ姿で畳の上を歩き回ったり、と完全な興奮状態といっていいほどのはしゃぎっぷり。

    さらに「洋行気分の魔の手」に引かれ、送別旅行で箱根の富士屋ホテルへ。そのあまりの設備の豪華さに「名古屋ホテルは木賃宿」と驚き、ディナーではメニューが読めずに茫然とする。食事の最後に「僕たちの作法に間違いはなかったかね」と女給仕に尋ね、「ありませんオホホホ」と笑われてしまう。

    この「異国膝栗毛」は五百ページ余の本なのだが、こんな調子で出発までに百三十ページ以上を費やしている。

    日本を離れた後も、当然、近藤画伯とその仲間たちの珍道中は続くが、出発前だけでここまでの赤毛布ぶりをさらけ出す洋行記はない。右往左往する場所が国内だけに、その滑稽ぶりはさらに際立っている。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.82より



    ■第二十七回 「足袋と旅」


    一九六四(昭和三九)年に海外旅行が自由化される以前、外国旅行のスタイルとして世界一周がごく一般的だったことは当コラムでも紹介した。一生に一度の機会を得たと喜んだ洋行者による世界一周記は、明治期から数えると、膨大な数にのぼる。

    敗戦から自由化までの約二十年間に絞ってみると、実業界の視察旅行を基にした世界一周本が目に付く。かの地の実情を同業の皆さんとともに視察するーそんな大義名分のもと、会社の重役さんたちは観光を楽しみ、外地ゆえに多少羽目も外した。日本型会社組織が強固で、会社での出世にサラリーマンの夢があったころの話である。

    そんな時代の世界一周本のひとつに、遠藤昇二著「私の世界紀行」がある。建設会社の副社長が六一(昭和三六)年、業界関係者とともに欧米を視察し、社内報に書いた連載をまとめたものだ。序文に社長や衆院議員の挨拶があり、巻末に地元新聞の書評もありで、いかにも会社役員の洋行記の色彩が色濃いのだが、他の同種の洋行本と少々異なるのは、妻を同行した「老夫婦」の旅だった点だろう。

    二人を含む一行は台湾から香港、エジプト、ヨーロッパ、アメリカ本土からハワイまでを四十五日間で回った。訪問国は実に十七に及ぶ。その旅を詳細に書きとめた本書の口絵には、遠藤夫妻が仲睦まじそうに並ぶ写真がある。イタリア・カプリ島へ向かう船上でのワンショットなのだが、そこで目にするのは、遠藤氏の背広姿と、夫人の着物姿。遠藤夫人は旅行中、ずっと和服で通したようで、一定年齢以上の女性は和服が一般的だった時代を象徴する写真だ。

    遠藤夫人同様、ほぼ同じ時期に和服で世界一周の旅に出かけた女性がいる。着物デザイナーの木村幸江である。彼女は、キモノの魅力を世界の人々に知ってもらいたいと考えて洋行を思い立つ。その二カ月間の旅の記録が、「世界一周 足袋の旅」(文京閣)である。このダジャレタイトルが何とも味わい深いではないか。そして、知人や娘らへの手紙形式で書かれた内容もなかなかに興味深いのである。

    木村さんはヘアデザイン協会の海外視察に同行できることになり、六○(昭和三五)年九月に旅立つ。羽田空港に野菊の花を織り出したキモノで登場し、「最後までキモノで通してきてね」の声に送られながら、訪問着二枚、道中着五枚を持ち、世界一周キモノ行脚をスタートさせる。

    ただ、初訪問地のドイツで、ジロジロと足元を見られ、不思議そうにのぞき込まれた。不躾にも足を指差す人もいる。着物も珍しいのだが、特に白い足袋が注目を集めているらしい。自分は見世物のようだ、といったんは弱気になった木村さんだが、何も臆することはないと思い直し、念のために持ってきた洋服二組を日本に送り返す。それ以降、堂々とキモノで活動し、現地の女性たちをキモノのモデルにも仕立てる。

    当初、落ち込む原因となった足袋だが、吹っ切れた後は、外れた金属製の足袋の留め具「コハゼ」に興味を示すホテル清掃係の若い女性にこれをプレゼント、大喜びするエピソードを楽しげに記述するほどになった。めでたし、めでたし、である。

    そんな彼女は「海外に出られる貴女へ」という一章を設けている。足袋は目立つので汚れのないものを、とか、帯は付け帯が一番といった一言集である。その中にオッと思うアドバイスを見つけた。「キモノを短め目にきて、ハイヒールをはいても、海外ではおかしくありません」。それって、本当にありなんですか?  知らなかった…。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.83より



    ■第二十八回 「旅券」


    ♪とんとんとんからりと隣組
    格子を開ければ顔なじみ
    回して頂戴 回覧板
    知らせられたり知らせたり♪
    (「隣組」)

    戦前、近隣の住民同士の結び付きを強めるために作られた「隣組」制度。啓発のために作られたこの国民歌謡は、漫画家岡本一平(一八八六〜一九四八)が作詞した。

    ユーモラスな歌詞、明るく弾む曲調で親しまれたが、三十代、四十代の本誌読者には替え歌である「ドリフ大爆笑」のオープニングテーマ曲として馴染んでいる人が多いかもしれない(最近はハイボールのテレビCMでも曲が使われている)。

    岡本一平。生誕百年を迎えた芸術家太郎の父であり、作家かの子の夫である。近代漫画の世界を切り開き、人物批評に冴えた筆を見せた。その一平が一九二二(大正一一)年に初めて洋行した記録が「世界一周の絵手紙」(磯部甲陽堂)。以前、当コラムでもトラベルグッズとしての「ふんどし」を取り上げた際に触れた。

    今回はこの漫画家の渡航前のエピソードを紹介しよう。

    洋行に先立ち、人任せで携行品などを整えた一平、ついに「自分でしなくちゃならぬ」重大事に直面する。旅券、すなわちパスポートの取得である。

    東京府庁の旅券課で下附願いを出したが、願書が外務省に回ることを知って不安に駆られる。当時の外務大臣内田康哉について、風刺や皮肉が利いた漫画を描いていたからだ。

    後に国民統制のための歌謡曲「隣組」を作詞する一平だが、相手が誰であれ「世道人心に不都合だと見た場合はガミガミと絵筆の上で叱言を言う」のが漫画家の仕事だと考えていた。そうした高官批判が影響はしないだろうと思うものの、「お上」のやることだからと気が気ではない。

    そのうち、刑事が財産調べにやってきて、ようやく旅券を手に入れることができ、国法は公平だと胸をなでおろす。

    もらった旅券に書かれていたのは「生来之日本人」の文字。三十七歳の一平はそれを見て、自分が日本人であることを深く噛み締めるのである。

    旅券は、普段ほとんど意識することのない「国」を自らに突きつける。海外渡航の許可制度の始まりは幕末・明治初期に遡るが、大鹿武著「幕末・明治のホテルと旅券」(築地書館)によると、一八六九(明治二)年の「海外旅行規則」で渡航免状の発行事務が整備され、一八七八(明治一一)年に「海外旅券規則」が出て、現在まで続く旅券という言葉が使用され始めたという。

    このパスポート、かつては入手に手間がかかった。一平が渡航した大正年間に出た「世界通」は、本格的な海外旅行用ガイドブック。旅券取得についてこんな記述がある。「財産もある、知名の紳士に対しては容易に下附せらるるものであるが、そうでも無い時は所轄官庁では申請者の身許、学歴、資産状態などの調査に時を移して、二月経っても三月経っても容易に下附せぬ」。これは労働目的を取り締まるためだったらしい。

    それでは労働目的と見なされた場合、いかに取得に苦労したか。移民保護協会が編纂して一九○二(明治三五)年に出た「海外出稼案内」(内外出版協会)を見てみよう。

    同書はまず、旅券業務に携わる官吏の姿勢を批判、彼らと渡り合うために「外国旅券規則」を暗記(!)せよとアドバイスする。さらに各府県で出願の方法や取得の難易度が違うことを説明する。驚くべきことに東京は入手しやすいものの、長崎や広島、岡山は難しかったらしい。官吏が圧倒的に強かった時代、旅券取得には涙ぐましいエピソードが数多あった。その詳細は次号で。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.84より



    ■第二十九回 「旅券」(2)


    今回もパスポートにまつわるお話。

    まずは昭和初期のお嬢さまのエピソードから始める。主人公は馬郡沙河子嬢。○八年二月発行の本誌六十六号で「女性の旅」を取り上げた際に紹介したが、シベリヤ鉄道で単身、一年弱の英国遊学を試みた女性である。一九三二(昭和七)年の「欧羅巴女一人旅」(朝日書房)がその旅の記録だ。

    沙河子嬢は序文で「太陽の如く輝かしかる女性」が、日本では不自由で束縛多い生活に閉じ込められていて「常に男性の奴隷として意志を失ったロボット」と化していると怒りを露わにする。一方で「男子と闘って職業戦線に進出する事に没頭」したり「ヤンキーガールの服装や表面的自由のみを模倣するモガ(モダンガール)」を気取ったりする女性にも冷ややかな目を向ける。

    日本女性は因習的存在から抜け出し内的生活も充実させる必要がある。そう願う沙河子嬢は映画や書物で外国人女性の生活を知り、直接触れてみたいと洋行を決意する。娘に理解を示す資産家の父の援助を受けて準備を進めるのだが、当時の社会常識はそう簡単に彼女を国外へ出してくれない。

    「ナーニ、英国へ貴女お一人で? しかもシベリヤ経由で? 屈強の男子方でさえお連れをさがして船で行かれるのに貴女のようにまだ若いお嬢さんが」

    旅券下附願を郷里の県庁へ出すと、担当の役人、穴のあくほどジロジロ見た挙げ句に「お転婆娘が」と言いたげな表情でこんな言葉を投げた。沙河子嬢は船酔いするたちで、親に出してもらう費用も安く上げたいとの思いから列車を選んだのだが、そんな殊勝な気持ちは通じない。

    数日後に「どうなりました?」と恐る恐る様子を尋ねると、「どうなりましたも、こうなりましたも、まだ向こうへ回してない」と無愛想な返事。沙河子嬢は「江戸時代の殿様でもあるまいし」と鼻白む。ただ、人民は弱し、官吏は強し。文句も言えず、引き下がるのである。

    この下附申請、役所で握りつぶされそうになるのだが、何とか外務省に回ったところ、「問題なし」と一発でOKが出て郷里は大騒ぎになり、地元紙は「市内某病院令嬢、英文学研究のため渡英、魔の列車と想像されるシベリヤ経由にて」とかき立てる。

    さてこの郷里がどこか、麹町在住の沙河子嬢は明らかにしていないが、東京以外でのパスポート取得は、非常に面倒なものだったらしい。東京での旅券申請は大正期には既に簡略化が始まっていたようで、一九二一(大正一○)年に出た上村知清・荒巻栄共著「米国旅行案内」(日米図書出版社)は「近頃東京府では旅券下附手続きすこぶる簡便」とわざわざ記している。

    一九○二(明治三五)年の移民保護協会編纂「海外出稼案内」(内外出版協会)は、旅行者向けではないが、旅券の記述が充実している。本書によると、各府県で出願先も異なることが紹介されていて、さらに旅券取得の難度も示されている。難しいのは兵庫、広島、熊本、和歌山、長崎などで、出稼ぎ労働者と見て「禁止的態度」を取ったようだ。これらは「からゆきさん」が多く出た地域であることも理由だろう。

    本書で興味深いのは、資産ある商人が旅券を取得しようとして役所ともめる話である。町役場を通して神奈川県庁に旅券を申請したが許可が下りない。冷笑を浮かべた官吏が「労働者の海外旅券は駄目」と言う。商人が「労働じゃない、内地で遊んでいても暮らせる身分だ」と息巻くと、「ぶらぶら遊んでいる人間は米国に用はないだろう」と返される始末。結局、つてを頼って東京で出願、無事に旅券を得る。

    同書はこのエピソードを紹介した後、次のようにつづる。「神奈川県の如きはまだ寛大」。つくづくこんな時代に生まれなくてよかったと思う。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.85より



    ■第三十回 「税関」


    カストリ雑誌。太平洋戦争直後、出版の自由化、戦後の解放感に伴って雨後のタケノコのように発行された大衆向けの娯楽雑誌をいう。粗悪な密造焼酎を指すカストリ同様、3合(3号)で潰れてしまうという意味で名付けられたそうだが、現在では時代風俗を知る貴重な史料にもなっている。

    そんな雑誌の一つである「Gメン」6号(1948年5月発行)が、実に興味深い特集を組んでいる。ずばり「世界の魔窟を語る座談会」である。魔窟とはこの場合、娼館を指す。これは、世界各地の妓楼及び夜の女性について語り合う座談会なのである。身も蓋もなく言ってしまえば、カストリ雑誌の風俗特集。そう聞くと、キワモノ感たっぷりだろうが、出席メンバーがすごい。画家の東郷青児、作曲家の古賀政男、活動弁士の松井翠声、渋沢栄一の4男で実業家の渋沢秀雄。この4人が欧州を中心とした各国の夜の事情を語り尽くしている。

    冒頭、日本と違って大規模な遊郭がないことの不思議を語り合う4人。ただ、南米には日本に近い規模のものがあることを古賀政男が紹介すれば、松井翠声はマルセーユやパリのエロチックショーを微に入り細をうがって説明する。カフェなどでアバンチュールの相手を見つける方法を伝授するのは東郷青児。これはモデル探しも兼ねていたようだ。渋沢秀雄は一流のキャバレーで繰り広げられる一風変わった趣向のアトラクションをおもしろおかしく解説する。

    そんな4人に記者が質問する形で座談会は進行するが、東郷が日本人の写真をたくさん持つ女性と出会ったことを話し、それが例の「税関」だったと言うシーンがある。「税関?」といぶかる記者に、東郷に代わって松井が説明する。「日本人専門で大抵、一度は世話になるから、すなわち税関(笑)」。

    松井はさらに解説を加える。「パリはもちろん、メキシコ辺りにまでいて、株というか権利みたいなものがあって、堅気になるときは、その権利をほかの女に譲渡していく」。座談会はこの話題でひとしきり盛り上がり、間もなくお開きとなる。

    まあ、困ったおとうさんたちであるが、明治から昭和のある時期まで、旅行者であれ、留学生、駐在員であれ、洋行者の多くが経験してきたのは事実。国内では遊郭などに一歩も足を踏み入れない人々も海外では違ったようで、明治から昭和までその種のエピソードは枚挙にいとまがない。

    この税関というネーミング、こうした種類の戦前本をひっくり返すのを趣味にしている筆者にとって、ときどきぶつかる言葉なのである。代表的なのが、1917(大正6)年に出た小日向九三著「倫敦の女」(須原啓興社)。主人公は、フランス生まれでロンドンに住み着いたジャネット・ベルトンで、彼女が半生を語り下ろすスタイルになっている。前後編に分かれていて、前編が「税関女となるまで」、後編が「私の知っている日本紳士」。サブタイトルはずばり「日本紳士の遊びぶり」である。

    帽子店の売り子のジャネットが日本軍人と恋に落ちて愛人になったものの、男の突然死によって運命が暗転、夜の仕事をするようになり、日本人専門の「税関」となるストーリーが語られる。ジャネットから聞き取りをしたという著者は、日本紳士を変名としたと恩着せがましく言いつつ、著名人ばかりなので「想像するに難からず」と脅しのように述べている。登場するのは、実業家に御曹司、大学教授、ジャーナリストとさまざま。日本男児の困った性癖や生態が記されるが、この詳細は次号にて。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.86より



    ■第三十一回 「税関」(2)


    ジャネット・ベルトン嬢は、パリ近郊の小さな村に生まれた。故郷は富豪の別荘が建ち並ぶ美しく平和な保養地で、裁縫師の子どもとしてのびのびと育つ。ただ、単調な村の生活に飽きたらなくなり、別荘にやってくる令嬢たちの華やかな暮らしに憧れ、家出をしてパリへ、そしてロンドンへ。そのジャネット嬢の波瀾万丈の日々を聞き取ったのが、前号でも少し紹介した小日向九三著「倫敦の女」(須原啓行社)である。

    著者は「税関女の手記」というタイトルにしたかったそうだが、版元の要請で変更した。確かにいきなり「税関女」では意味不明である。ジャネット嬢は日本人専門の夜の女、すなわち英国入国の際に必ず通る「税関」のような存在だったわけである。洋行者のほとんどが男性だった時代、旅行記をひっくり返すと、夜の女性を指す隠語としてときどき出てくる言葉である。

    「倫敦の女」の出版は1917(大正6)年。ジャネット嬢と深い縁があった日本人は、明治後期にヨーロッパに滞在した男どもである。彼女の語りに耳を傾けてみよう。

    パリの煙草店に看板娘として勤務していたとき、日本の大使館付武官に見そめられて交際がスタート、幸せな日々を送っていたジャネット嬢。男の不慮の死によって運命は暗転する。悪い男たちにだまされて財産を奪われ、逃げるようにロンドンへ。夜の世界で働くことを決意したジャネット嬢は、同じ商売の女性が多数出入りする料理店「グロウブ」を拠点に仕事を始めたが、ついた客は日本人ばかり。そこで日本人を専門とする先輩のメープルさんから「税関」の仲間入りを認められる。親分株と見なされる「税関」新メンバーの誕生だ。

    早速、税関仲間8人がシャンペンを抜いての祝宴を開いてくれ、ジャネット嬢は税関女としてさまざまなタイプの日本紳士に遭遇することになる。さて、同書はここからジャネット嬢の日記からの抜粋というスタイルに変化するのだが、後篇のタイトルは「私と関係のあった日本紳士」。大正時代、これを見て、泡を食った洋行帰りのおじさまたちは多かったのではないか。

    著者は、日記にある本名は地位ある人が多いために変名にすると述べているが、「何びとなるかは直ちに想像するに難からず」とわざわざ述べている。事実、「深井物産」「浅島屋」など、書名に登場する会社名はあからさまなほど分かりやすい。さて、心優しいジャネット嬢の元に通い、彼女を困らせた日本紳士たちの姿を見ていこう。

    大政党の代議士で、英語が極めて下手な佐藤さん。ほら吹きで、民間会社のふところを頼る情けない政治家。東京帝国大学教授の白川博士。嫉妬深くて非常にしつこい。旭郵船会社の上岸支配人。日本の悪口を言ってイギリス紳士然としているが、ジャネット嬢との旅行にこっそり手を出したメイドを連れてきて、おまけに妻にもばれてしまう。お堅いのが評判の東洋銀行の河辺さん。実は木石どころか、その道はかなりのものだが、ゴロツキのような新聞記者に不品行を知られてしまい…。
    いやはや、困った洋行おじさんたち、オンパレードである。

    そんな中で彼女が口を極めて罵っているのが、会議のため欧州を訪れた五十代半ばの男。たまたま鉄道で彼女と知り合った際はジェントルマン風だったが、彼女の職業を知った途端、真っ昼間から誘い、挑んできた。教育家の顔は表面だけ、と嘆息するジャネット嬢だが、この手の話は教育者に実に多い。道を説かねばならぬ戦前の教育者、普段の抑圧が強すぎたんでしょう。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.87より



    ■第三十二回 「税関」(3)


    前号、前々号は、戦前の男性洋行者が必ずといっていいほど通過した「夜の税関」、すなわち日本人専門の女性について報告した。今回はその「税関」編の最終回である。

    本誌73号(2009年4月発行)で、日本男児必需品としての「ふんどし」の紹介をしたが、その際引用したのが当時学習院大助教授だったドイツ語学者、早川東三氏の「じゃぱん紳士」(1961年)。海外旅行自由化以前の洋行失敗談を満載した旅行指南書だ。副題に「夜のエチケット教科課程」とあるだけあって、下ネタが非常に多い。「税関」に関しても、こんな記述がある。

    「昔ヨーロッパのどことかに『税関』とあだ名された女性がいたそうだ。渡欧した限りのあらゆる日本人が、そこをくぐり抜けた」。早川先生は、その種の女性は今もいると言い、数百枚の日本人男性の名刺を持つハンブルグの女性を例に出し、軽率な行動を慎むよう日本紳士に釘を刺している。早川先生、ご自分には通関体験がなく、この本にも具体的記述がない。なので、戦前に体験を書き記した人物に登場してもらおう。稀代の艶福家、美川徳之助氏である。

    1898(明治31)年生まれの美川さんは、デパート業界の実力者の家に生まれた。秀才が集まる東京府立一中へ進んだものの、軟派学生ぶりが過ぎてドロップアウト、父親から欧州へ遊学の旅に出される。せめてヨーロッパ帰りという箔付けだけでも、ということだったらしい。かつての有力者の家庭によくあった話である。

    美川さんはロンドンで1年、パリで5年を過ごすが、ここで放蕩のかぎりを尽くす。人妻とのアバンチュール、夜の女との交情、あやしげな店への出入りなど、大正時代にかくも、と思わせるほどの徹底した遊び人ぶりである。

    ある娼館を訪ねた際の文章は内部の様子を微に入り細を穿って書いていて、フランス文学者の鹿島茂先生が、著書「パリ、娼婦の館」(角川学芸出版)で「後世の歴史家にとって、ありがたいことこの上ない資料」と絶賛しているほどだ。

    この美川さん、帰国してから新聞記者として働き、パリ時代の思い出や女性体験に関して数冊の本を残している。1964年に出た「女の名店街」(第二書房)では「税関」についてこのように記している。

    「ロンドン、ベルリン、アントワープと、日本人の出入りのはげしい都には、どこにも必ず税関と称する商売女がいた。(中略)その頃のロンドンの『税関』女史はシンクレアと称した」

    美川さんと彼女の出会いはこんなふうだった。ピカデリー・サーカスから少しはずれた街で「ジャパニーズか」と呼ぶ女性がいる。そうだというと、「ロンドンには最近来たんだろう」という。なぜ分かるのかと問うと、「私、シンクレアを知らないからさ」。  部屋に連れて行かれ、手文庫の蓋を開くと、中にはぎっしり何百枚もの名刺が! 彼女曰く「オールジャパニーズ」。

    ひときわ大きな名刺は、時の駐英大使林権助のものだった。ウヘーっとうなった美川さんに、「随分たくさんのお金をくださったのよ」。

    外交官はどこの国でもフリーパスなのに、この「税関」はたいしたものだ、多額の入関税を支払わせる、と美川さんは妙なことに感心するが、後に誰かの成りすましなのではないかとも考えたようだ。

    一夜明けた翌日、彼女は朝食を作って食べさせてくれ、「シンクレア、ヨロシイナ」と日本語で言った。

    サービスの充実ぶりに美川さんは本当にヨロシイナと思ったそうで、なんだか創作落語のようなオチである。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.88より



    ■第三十三回 「子どもの旅」(1)


    しばらく艶っぽい話題が続いたので、今回はちょっと趣向を変えてみよう。

    本連載で何度か記した通り、戦前は洋行者のほとんどが男性だった。女性の社会進出はまだ遠く、ビジネスや留学、視察はもちろん、観光旅行でさえも青壮年の男のものだった。女性だけではなく、移民を除けば、子どもの姿も洋行者の中にほとんどない。

    ただ、明治期から昭和初期の外遊体験記を多数読んでいると本当にわずかだが、船内でアイドル的存在となる洋行者に同行した子弟、子女についての記述がある。もちろん、子どもの様子を中心に書かれたものではなく、渡航した年少者の姿がはっきりと分かるものはほぼ皆無。

    その中での極めて珍しいケースが、大阪在住の中学生、蜂谷経夫君の洋行だ。しかも本人の手記というスタイルで発表されているのである。

    大阪府立住吉中学校1年生だった経夫君は、1930(昭和5)年12月に日本を発ち、翌年4月に帰国するまでアメリカ西海岸を中心に旅した。しかも、世話人はいるものの、同行する家族はなく一人旅だった。

    学業途中の十四歳の少年がなぜ、留学でもないのにアメリカへ半年近くも出掛けたのか。なんと、喜劇王チャップリンに会い、贈り物(なぜか陣羽織!)を手渡す使者としての大旅行だったのである。

    経夫君は、三笠屋百貨店を経営する蜂谷経一氏の長男。三笠屋は大阪・上本町の大阪電気軌道(近鉄の前身)ターミナル、大軌ビル内にあったデパートで、経一氏は大阪商工会議所議員も務めた実業家だった。その長男の経夫君が中学に入って間もなく、盲腸炎にかかって半年間の療養を余儀なくされた。

    回復した際、気持ちを新たに再出発できるようになれば、と経一氏が親心で思いついたのが米国行。しかも「金持ちの坊んちの金づかひの旅」と誤解されるのも心外だと考え、ひらめいたのはチャップリン表敬の少年平和使節だった。経一氏自身、大正時代にアメリカを旅してチャップリンに会ったことが着想の元にあったようだ。

    そして、経夫君の旅である。実質は11月29日に神戸港を離れたところからスタートする。いったん横浜へ向かうのだが、ここまでは両親と一緒。

    12月2日、いよいよ静岡丸はアメリカへ向けて出航する。岸壁でステッキを振る経一氏、ハンカチで目をぬぐう母親の姿を船から確認した経夫君は、涙で何も見えなくなってしまう。しかも船酔いに苦しむつらい出発となったが、すぐに若さゆえの高い適応力を発揮、デッキビリヤードなどに夢中になって船上生活を楽しむ。事情が事情だけに船長以下、周囲のみんなが経夫君を大事にするのは当然だ。しかも経夫君は一等の客なのである。

    ようやくシアトルに到着、期待に胸を膨らませた経夫君に大変な事態が起きる。税関吏から「小さいから十分な取り調べをしないと上陸させない」と宣言され、移民局の留置室に入れられてしまう。窓に鉄格子が入った部屋には、多くの中国人を含む密航者が。異国での第一夜、毛布1枚で過ごす経夫君は、一度は頭が「ぼーっと」なったものの、すぐに「いつかはこの悲惨な出来事を役立たせて見せるぞ」と決意する。実に立派な少年である。

    翌朝、2時間にわたる尋問を経た後、上陸が許可されてアメリカへの第一歩を印す。ただ、贈り物である陣羽織には70円以上の税金が課せられてしまった。ランドセル1個が3円の時代、経夫君はびっくりしてしまう。ここからハリウッドに向かい、無事、チャップリンに会って陣羽織を渡せるのか? 詳細は次号にて。

    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.89 2011年12月発行号より



    ■第三十四回 「子どもの旅」(2)


    前回に続き、大阪在住の中学生、蜂谷経夫君のアメリカ旅行物語である。

    大阪府立住吉中学校1年生の経夫君は、1930(昭和5)年末から翌年春まで米国を旅した。同行する家族がいない一人旅。実業家である父親の経一氏が以前会ったことのあるチャップリンに贈り物(陣羽織)を手渡す使者としての渡米だったが、入国がすぐに認められず、密航者らが集う移民局の留置室に一夜留め置かれてしまった。

    何とか状況をくぐり抜けて入国した経夫君は、シアトルからポートランドへ、ロサンゼルスへと観光をしながら、ハリウッドへと歩みを進める。

    ただ、チャップリンへの親善使節とはいうものの、確実な約束があるわけではなく、「当たって砕けろ」型の使者。ちょっと無茶な話なのである。

    父親の経一氏は1921(大正10)年、米国視察旅行の際にチャップリンに面会した。ただし、現地で行った面会の申し込みが実現したのは25日後。経一氏が1925(大正14)年に出した著書「亜米利加の旅」(研文館)によると、「日本からわざわざどんな用で?」といぶかるチャップリンに対して「僕がチャップリンによく似ていると評判」なことと、「世界的名声を博すに至った動機」を聞きたかったと述べ、チャップリンを苦笑させている。2人が並んだ写真が掲載されているが、確かに背格好はよく似ている。しかも2人は同い年なのである。

    まあ、チャップリンにとっては世界各国から押し寄せるファンの1人だったのだろうが、経一氏には誇らしい思い出。長男を親善使節にすることを思いついたのも無理はない。

    ただ、この約10年間でチャップリンの名声はさらに上がり、以前よりも会うのがはるかに難しくなっていたのである。

    チャップリンの日本人秘書として知られた高野虎市らのアドバイスも受けながらロサンゼルスで待つこと20日間。1月28日、ようやく経夫君は面会を果たす。手土産の陣羽織をチャップリンに渡すと、彼は襟に目を留めた。そこには「世界一」「超夫倫」の文字。チャップリンは世界一の意味だと経夫君が説明すると、彼は大笑いし、後日の撮影所の見学を許可したばかりか、映画の扮装での記念撮影にまで応じてくれた。

    ちょうど米国で「街の灯」が封切られた時期である。経夫君はほかにも贈り物を携えていて、イカリソース創業者、木村幸次郎氏からのプレゼント「桃太郎物語」なども手渡した。陣羽織に桃太郎。なるほど、確かにコンセプトは日本一、いや世界一なのである。

    めでたし、めでたしの結末だったのだが、感動の対面を果たしたはずの経夫君のチャップリンに対する印象は「淋しい人」。笑いを生み出すために努力するコメディアンの苦悩を読み取り「落語家が家庭に在っては苦虫を噛み潰したような顔をして滑稽を考えている」ようなものか、と結論づける。

    本人が本当に書いたとしたら、中学生と思えないほど世故に長けた少年である。

    経夫君が1932(昭和7)年に出したこの手記のタイトルは「可愛い子には旅をさせ」(誠文堂)。息子を「経ちゃん」と呼んで気遣う母の手紙、父の思いの詰まったエッセー「親心」も入っている。特に旅先に母親が出した手紙は「病後静養かたがた見聞を広めるため」の渡米であり「そのついでの会見と贈り物なのですよ」とまで言っている。静養で洋行というのもすごいが、チャップリンをついで扱いするのも大変なものだ。親心はいつの時代も変わらないものだとしみじみさせられる。

    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.90 2012年2月発行号より



    ■第三十五回 「記録魔 その1」


    世に記録魔、メモ魔と呼ばれる人がいる。周囲に起きた出来事、会話、考えたことなどをことごとく日記などに残しておかねば気が済まない人たちである。そんなタイプの63歳の男性が世界一周の旅に出掛けた。

    海外旅行が珍しかった戦前、見聞きした事実を克明に記し、物の値段を日本と比較しながら書き留め、感じたことを正直につづった。1941(昭和16)年に出た吉野藤一郎の「世界一巡紀行」(発行・吉野藤商店東京店)である。流麗な文章ではない。気の利いた描写があるでもない。劇的な出来事も起きないのだが、「一老商人」が書いたこの大部な本がやたらと面白いのである。

    吉野藤一郎は明治初期に生まれた群馬県の実業家。現在も続く繊維関係の会社、吉野藤の2代目経営者である。真面目で商売熱心な上、時代を読む力と経営の才覚に恵まれた吉野は、先代から引き継いだ会社を大きく発展させてきた。商売も順調、還暦を過ぎたとはいえ健康そのものの彼のもとに、日本貿易振興会から「第六回世界一周旅行」の勧誘パンフレットが舞い込む。子どものころから海外の地理が大好きで、洋行のチャンスは今しかないと考えた吉野は、高齢の母親の許しを何とか得て、4ヶ月半に及ぶ世界旅行の旅に出るのである。

    出発は1937(昭和12)年6月19日。日中戦争の発端となる盧溝橋事件発生の約20日前というきな臭い時期だ。当然、ドイツ、イタリアをのぞく欧州諸国、米国との微妙な関係が旅にもほのかに暗い影を落とし、流動化する国際情勢を反映し直前になって旅程の変更を余儀なくされる。とはいえ、ツアー自体は楽しさ満載で、吉野は全力でこの旅を駆け抜ける。

    全力は比喩ではない。63歳という年齢での初洋行にもかかわらず、現地の食べ物をしっかり食べてぐっすり眠り、経験できることは可能な限り経験している。最もすごいのは「酒を節し全く夜遊びを廃し他の団員よりも2時間早く起きて」世界一周通信を書き続けたことだ。その一文は各地から会社へ折々に送られ、月刊PR雑誌「吉野藤マンスリー」に掲載された。

    本書はそれをまとめた集成版なのだが、分量は200字詰め原稿用紙にして2700枚に達する。旅行日数の133日で割ると、1日平均20枚! 海外20数カ国を巡り歩きながら書いたと思えない、驚異的な量である。

    洋行が珍しかった時期の功成り名を遂げた実業家の渡航記録であり、こうした本は通常、関係者に記念のために配るいわゆる「饅頭本」と考えられがちだが、同書は再版がかかるほどの好評を得た。

    この本を読み応えのあるものにしているのは、著者の「全力」が生んだ、微に入り細を穿つ記述と個人的主観に満ちたスピード感あふれる文章、そして優れた編集のおかげだ。雑誌と本、双方の編集に当たったのは、吉野の次男である秀雄。つまり、昭和を代表する歌人の1人、吉野秀雄その人なのである。

    さて、それでは吉野藤一郎の世界一周にしばらくお付き合いいただこう。この本の主語は「俺」である。まずここから他の洋行本とはテイストが違うのだが、その俺が乗り込んだ船は、ドイツのシャルンホルスト号。後に数奇な運命をたどる船だ。そして欧州に入る際の港はイタリアのジェノバ。このあたり、時代が色濃く反映されている。俺は一等船客であり同室は大阪で工場を営む西山卯之助。これまた、息子は住宅問題に取り組んだ戦後日本を代表する建築家西山卯三という著名人なのである。藤一郎と卯之助は同い年で、気が合うところを見せつける。

    出港から間もなく藤一郎がかばんから出したのは木魚。この日は父親の命日で、彼が木魚をポクポクと叩き出すと、それに負けじと卯之助が取り出してきたのが何と、阿弥陀如来の掛け軸。経文を唱え、いきなりのシンクロナイズド仏教である。

    旅行携行品には詳しいつもりだが、これには度肝を抜かれた。さらなるお話は次号にて。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.91 2012年4月発行号より



    ■第三十六回 「記録魔 その2」


    前号からの続き、実業家吉野藤一郎の旅である。

    昭和を代表する歌人吉野秀雄の父藤一郎は、群馬県高崎市にある繊維関係会社の経営者。日本貿易振興会のツアーに参加、1937(昭和12)年6月から10月まで世界一周の旅に出たのだが、旅行参加者最年長の63歳とは思えぬバイタリティーで動き回ったばかりか、見聞きしたことを書いて、書いて、書きまくった。普通の渡航記にはないディテールがふんだんに盛り込まれた作品、記録魔の「俺」が書いた驚異の「世界一巡紀行」を見ていこう。

    まず、旅自体が波乱に満ちたスタートだった。ほぼ戦時下、ソ連の政治不安もあってコースそのものが直前になって北回りから南回りへと変更になってしまう。いきなり7月に印度洋経由である。藤一郎は、耐暑必需品を新たに買い求めるが、その品々も詳細に記録した。美津濃で買ったのが水着、運動靴、麻の鳥打ち帽。大阪の阪急デパートでは浴衣も入手し、渡航準備を調えた。

    冒頭からやたらと数字が出てくるのが、この洋行記の特徴。出港地は神戸なので、東京から京都、大阪で途中下車しつつ移動しているが、2時45分京都発、3時半大阪着とやたら細かい。泊まった大阪随一の中之島新大阪ホテル(今はもうありません)の客室数からコース変更に伴う差額、船の食堂の開室や閉室の時間、持って行った本の冊数、朝食の種類までいろいろな数字が次々と登場する。健康そのものの藤一郎は船内の食事も全て平らげるのだが、便通は通常通り1回で「平穏無事」と報告し、ただ食物が違うためか「量は3倍」と、あまり読みたくもない数字まで記している。

    商人らしく、物の値段にはさらに敏感だ。例えば理髪代。散髪2マルク、顔剃り1マルクなど邦貨5円50銭を支払ったと書き、これは東京の一流の理髪店の5倍半で、社員みんなが行くために安くなっている高崎の平田理髪店の特別料金と比較すると、20倍になると説明する。金額がよほど気になったらしく、それを絵葉書にしたためて「平田の親爺へ宛てて出した」。

    有り余るパワーに驚かされる63歳である。

    戦前の旅で珍しいのは、参加者の有志で飛行機を用いた小旅行を計画し、ベルリンからウイーン、ブダペストを回っている点だ。ここでも「16人以上乗れる大型旅客機」についてつぶさに報告し、用意された酸素吸入具、耳綿などのうち、「小便袋」を記念のために高崎へ送ったと記している。

    その筆まめぶりは驚くばかりだが、本人は「郷土の青壮年に外国見物を薦めたいというのがひとつの目的」で「何も知らない人を忽ち船内生活に慣れさせよう」と思ったと言う。ただ、健康を気遣う息子の秀雄から注意されると、「俺は人一倍うんと見物して、一枚でも多く覚え書きを作り、終生の思い出の材料としたい。人が興味も持とうがどうかは関係ない」と開き直ってしまった。かなりの頑固親爺ぶりである。その記録魔の姿が参加者のひやかしの種になったが、メモを書くために「一行中の90パーセントまで耽るところの夜の享楽には、俺は決して参加しない」と宣言している。

    これが惜しい。夜の享楽を知りたい筆者は、ここが残念でならない。参加して微に入り細を穿って書いてもらえれば、またとない資料になったに違いないからである。ウイーンでは「大通りといはず公園といはず、口唇を赤く塗り、指の爪を紅く磨き上げた魔性の女は我等の眼前をしきりに徘徊する」とある。

    これは…本当に惜しい。

    とはいえエロティックな体験が全然なかったわけではない。ニース滞在中に「怪しげな映画」を見て、100フランとチップ10フランを取られて「南無阿弥陀仏」と唱えている。

    お金とお経が出てくるのが妙におかしい。なかなかのナイス爺さんである。


    情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.92 2012年6月発行号より



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