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ホテル情報誌「ホテルジャンキーズ」 ■ 作家とホテル ■ 北條 亜紀 ●好きなホテルの好きなコーナーで、好きなコーヒーを飲みながら、好きな本を読むのが何よりも好き。 白川道とホテル 白川さんは、いわゆる「塀」の向こうに落ちたことがある「前科者」作家を自ら売り物にしているが、バブル期に株の世界で大儲けした体験をデビュー作の「流星たちの宴」で書いている。 白川さん自身がモデルの主人公・梨田の家にいつのまにかするりと住み着いた猫のような美大生の恋人・理子が登場するのだが、モデルはエッセイストの横森理香さんだそうで、横森さんは横森さんで、彼女の視点から白川さんと一緒に暮らした時代を描いた「ぼぎちん」という小説を書いている。 いずれにせよ、どちらもバブルの時代のお話である。 「流星たちの宴」で、株の世界であぶく銭を手にするようになった梨田は、理子を連れて熱海の伊豆山にある高級旅館に予約もなしにぶらりと出かける。部屋を取るよう頼む際、「予算はどうでもいい」と言う。なにしろ金があるのでこわいものはない。あの頃よく聞いたセリフでもある。 旅館名は書かれていないが、かなり詳しく書かれているロケーションや造作のことを読むと蓬莱だろう。梨田が「この旅館の造りが通り一遍ではないのは見てとれる」といたく感心し、理子が「すてきね」「…いいところ」とつぶやく。よほど白川さんが個人的にも気に入った旅館なのだろう。 一方、バーのマダムと梨田が逢瀬の時間を過ごすのは、「できたばかりの赤坂にあるシティーホテル」。赤プリ(グランドプリンス赤坂)新館だろうか。あの頃はキラキラ輝いていたホテルだった。 このマダムとラスヴェガスに出かけた梨田が「どうしても泊まってみたいホテルがあったから」とわざわざロサンジェルス経由にして泊まったホテルが、ビバリー・ヒルズ・ホテルなのだが、ここは理子が「一度行ってみたい」と口にしていたホテルだった。そして、そのことはマダムには見抜かれ、「こういうホテルに泊まってみたいと思うのは、男じゃないわ」と言われる。 理子がいなくなった部屋を出た梨田がしばらく住むのは、「芝にあるシティホテル」。部屋の情景から芝パークホテルのようだ。 作家になった白川さん、今はどんなホテルが好きなのだろう? 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.81より 高杉良とホテル 高杉さんの小説は、企業の内幕を暴いたものが多い。○一年?○二年にかけて発表された「小説 ザ・外資」は、宮崎のシーガイアなどの買収も手がけたリップルウッドによる長銀買収をモデルにしたものと言われている。 物語は一九九七年のニューヨーク、セントラルパークのジョギングシーンから始まる。米系大手投資銀行に勤める主人公の西田が投資会社のオーナーに偶然会う。彼に朝食に誘われたのは、セントラルパークイーストの五番街に面したペントハウス。ピエール、カーライル、プラザアテネなどの超高級ホテルが軒を連ねるニューヨークきっての高級住宅街である。 当時の日本といえば、バブル崩壊で経済がガタガタになり、「ハゲタカファンド」と呼ばれた外資が跋扈していた頃だが、アメリカの新興投資ファンドが、日本人を信用させるために使ったのは、有名ブランドだった。投資セミナーの会場は帝国ホテル。取材記事が掲載されたのは日経新聞。 小説中、ホテルは舞台としてしばしば登場する。 メーカーに天下った元大蔵官僚をニューヨークで接待するのは、旧プラザホテルのオーク・ルーム。プラザ合意の舞台となった名門ホテルで、「一見の客を拒絶するほどのいかめしさを漂わせ」と描かれている。 米系投資銀行時代に西田がシカゴ出張で泊まるのは、ヒルトン・シカゴ。 日本に帰国した西田のために邦銀時代の同僚が取っておいてくれたホテルは大手町の旧パレスホテル。 米系製薬会社の日本支店に勤めるようになった西田が会食するのは、オークラ本館十一階の鉄板焼きレストラン「さざんか」。ここで偶然、再会するのはかつて西田が勤めていた米系投資銀行のアメリカ人元上司たち。彼らは銀行(長銀がモデル)の再建のため日本政府から高額のフィーで雇われ、オークラの上級スイートルームに滞在中だ。 西田が結婚式のため訪れたハワイで泊まったのはマウイ島のケア・ラニ。 シカゴから合流した米人上司がディナーに招待してくれたのは、ワイレア地区にあるプリンスホテル。 その後ハネムーンに向かうのはラナイ島というから、ロッジアットコエレかマネレベイに泊まるのだろうか。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.80より 赤川次郎とホテル 赤川さんの小説といえば、軽いタッチで文章も読みやすいことから中高校生にもファンが多いが、描かれていることは実はけっこうずっしりと重かったりする。 なにしろ多作な作家なので作品数も膨大で、「三毛猫ホームズの黄昏ホテル」「三毛猫ホームズの花嫁人形」をはじめ、「湖畔のテラス」「クリスマス・イブ」「断崖」などホテルを舞台にしたものも多い。 ユーモアミステリの三姉妹探偵団シリーズ「三姉妹探偵団2 キャンパス編」が書かれたのは、今から二十五年前の一九八五年。 バブル前夜のような社会状況の中で、女子大生や二十代のOLたちの間でもなんとなくホテルが手に届く存在になりつつあった頃だ。この作品ではそんな時代感覚が描かれている。 諸事情により自宅を離れてホテルに泊まることになった主人公三姉妹の高校生の末妹が、「私、夜中にルームサービスで夜食取ってみたかったんだ!」。 そして、「ホテルの朝食コーナー。----朝からバイキングスタイルで、ホットケーキだの、ハム、ベーコン、ポテトといったものが食べられる」と感動し、元を取らなきゃと皿に大盛りにして何度も往復する。 この作品にはホテルのガードマンも登場するが、滞在中のスターの追っかけファンのホテルらしい上手な追っ払い方なども書いてあってなかなかおもしろい。 短編「離婚案内申し上げます」は、おもしろおかしいユーモアタッチの語り口で、妻に離婚通知なるものを勝手に出されて三行半を突きつけられてしまった中年夫のあわてぶりを描きながら、最後のどんでん返しが泣かせる作品だ。 職場では同僚たちの好奇心にさらされ、主人公が人目を避けてランチタイムに逃げ込む先は「滅多に社員のやって来ない、近くのホテルの高いレストラン」。 ここで仕方なく一番安い料理を頼むという設定だが、この作品が書かれたのは前述作品と同じく一九八五年。まだまだ普通のサラリーマンにとってはホテルの敷居が高かった時代である。 このシーンの設定にぴったりの雰囲気のレストランといえば、建て替え前のパレスホテルの1階にあったテラスレストラン・スワンか東京會舘のシェ・ロッシーニあたりだろうか。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.79より 宮部みゆきとホテル 宮部さんは、実にさまざまなジャンルの小説を書いているが、人間の心の中に潜む暗い闇について書くことが多い。 ミステリー小説「模倣犯」で宮部さんが光をあてるのは、誰からも「良い人」と思われ慕われている人が実は心の奥底にかかえている悪意のマグマである。 この作品では、犯人のホテル観が犯人像をあぶりだすきっかけのひとつとなる。 犯人が、被害者の祖父で下町で豆腐屋を営む老人を呼び出す先が、新宿の高層ホテル。シーンにぴったり符合するモデルのホテルはない。 犯人は言う。「おじいちゃん、サンダル履きで行っちゃ駄目だよ。追い出されるよ」。 老人は「忠告に従い、ポロシャツの上に上着を着て、きちんと革靴を履いていった。」のだが、それでも「いささか過剰なくらい華やかに演出された広いロビー」では浮いており、「人びとの目を惹いた」。 贅沢な空間に「呆然とするような非現実感を覚え」た老人はハッと気づく。犯人は老人がこうした「場違いの感を覚える」ことを狙ってこのホテルを指定したことに。 最上階24階のバーに行くように指示し、犯人は「じいさんなんか、一流ホテルじゃまともに扱ってもらえないんだ」と言い放つ。 ところが、老人は地に足をつけて生きてきたゆえ虚飾にまどわされず、物事の本質を見抜く力を持っている。老人は、犯人が実は自分自身が「高級ホテルで『ちゃんとした扱い』を受けられない類」の存在であるがゆえ、コンプレックスの裏返しで老人にそんな目に合わせていることに気づく。 他にも、ホテルシーンがいくつか登場する。 主人公のライターの女性が使うのは「取材のため人と会う時によく使う」山の上ホテルの喫茶室。コーヒーパーラー「ヒルトップ」のことだろう。 刑事が元刑事の「建築家」の友人と密かに会う時に利用するいつもの場所は「いつ来ても、これでよく潰れないものだと感心するほどに閑散としている」ホテル。宮部さんもこちらは配慮したのかどうか、名前は明らかにしていない。 「ロビーはひろびろとしており、椅子とテーブルが点在している」、そして、「空いていて、フロントのカウンターで従業員があくびを噛み殺している」。そういうホテルだからこそ、彼らの密談場所にはぴったりなのだろう。宮部さんがモデルにしたのはどこのホテルなのだろうか。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.78より 幸田真音とホテル 幸田さんの小説には、しばしばホテルが登場する。たいてい名門ホテルである。 しかし、「名門」であるのには訳がある。幸田さんが小説の舞台とする国際金融界において、財力・信用を表す象徴のひとつがホテルであるからだ。だから、どのシーンでどのホテルが出てくるかが興味深い。 ヒロインの日銀副総裁を三十九才の女性に設定し、彼女が女の知力・美力、持つすべてをかけて、学者出身の審議委員を自分が思う方向にリードしていく姿を描いているのが「日銀券」である。彼女は用意周到に舞台設定をする。 そのひとつが冒頭の印象的なシーンの舞台となる南アフリカ豪華鉄道旅行。金持ちたちの贅を尽くした遊びの世界にうとい人にはこうした設定は効き目があるようだ。 また、一九八五年九月のプラザ合意の舞台として有名なニューヨークのプラザホテルも重要な舞台のひとつだ。あの年齢で「プラザ」の部屋を用意されて喜ばない経済学者はいないだろう。ここは幸田さんがお気に入りのホテルだったようで、説明も手厚い。 インターネットを使った金融犯罪小説の「マネー・ハッキング」では、最後のくだりでロンドンのグロブナー・ハウスが登場する。 物語は、華やかな前線で働くディーラーではなく、外銀でも地味なバックオフィスで働く主人公の志乃が、ディーラー、青年ハッカーと組んで、密かにマネーゲームを仕掛けるというもの。 このホテルは、それまで出張するディーラーたちから名前を聞くだけで、志乃にとっては手の届かぬ憧れだった高級ホテルである。 「想像していたより、ずっと控え目な雰囲気のした玄関」と語らせているのは、幸田さんが初めて訪れた時の印象とだぶらせているのだろう。 「ひとりで滞在するには高級すぎるホテルだ。……ロンドンに行くと決心したときから、志乃はこのホテルに泊まることを決めていた」 「自分にとっての貴重な再出発のときを、自分だけのためにとびきり贅沢な演出で飾ってやりたいと思って、志乃はこのホテルを選んだのだ」。 彼女は「ハイドパークに面したホテルのラウンジ、昼下がりのティータイムを楽し」みながら、「この紅茶をゆったり味わえただけでも、このホテルにしてよかった」と思う。 幸田さんにもそんな主人公と重なるような経験がかつてあったのだろうか。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.77より 村上春樹とホテル 村上春樹さんとホテルといえば、「羊をめぐる冒険」と「ダンス・ダンス・ダンス」に登場する【ドルフィン・ホテル】が有名だろう。 同名だが、後者のホテルは前者の跡地に建て替えられた新ホテルで、札幌にある架空のホテルである。 前者においては、通称【いるかホテル】と呼ばれ、「あまりぱっとしない一角」にあり、五階建ての小さなみすぼらしいホテルで「これほど個性がないホテルもまたとあるまいと思えるくらい無個性なホテル」。 これが後者では、「二十六階建ての巨大なビルディング」「バウハウス風のモダンな曲線、光輝く大型ガラスとステンレス・スティール、車寄せに立ち並ぶポールとそこにはためく各国旗、きりっとした制服を着込んでタクシーを手招きしている配車係、最上階のレストランまで直行するガラスのエレベーター」、そんなホテルに変わる。 「ダンス・ダンス・ダンス」にはさまざまな実在のホテルも登場する。一九八八年に刊行された小説なので、当時のホテル事情もうかがえて興味深い。 主人公「僕」の幼なじみで有名俳優の五反田君が泊まる横浜のホテルは、ホテルニューグランド。「彼はトレンチコートの襟を立てて、春の小雨の中」、玄関を入っていくのである。 十三才の登校拒否美少女とハワイに行ってホノルルのコンドミニアムに滞在し、夜になると二人で散歩したり映画を観たりした後、ピナ・コラーダを飲みに行くのは、ハレクラニかロイヤル・ハワイアンのバー。当時はそういうのがすごくかっこよかった。 ハレクラニでも、「プールサイド・バーじゃない方の室内バー」に行くこともある、というようにシチュエイションによって使い分けているあたりが実に村上さん。こちらでは飲み物も、「僕」はマティーニ、少女はレモン・ソーダに変わる。 少女がトロピカルな花柄のビキニを買うのはヒルトンのブティックというのも芸が細かい。 少女との箱根のドライブシーンでは、箱根冨士屋ホテルでアイス・クリームを食べたりもする。 村上さんによると、いいバーとはオムレツとサンドウィッチがうまいところだそうだ。 では、村上さんにとってのいいホテルとは、どんなホテルなのだろうか? 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.76より 東野圭吾とホテル 東野圭吾さんの人気作のひとつ、「幻夜」は「白夜」の続編と言われるが、まったくの別人に成り代わって登場するひとりの女のすさまじい生き方が描かれている。 貧しく絶望的な環境の元に生まれ育った美しい少女が、自らの野望のために邪魔なものは犯罪もいとわず排除し、人のいい人々を手玉にとってだまして利用し、世間を這い上がっていく様は、有吉佐和子さんの「悪女について」の主人公を思い出させるが、悪魔度、闇はこちらの方がずっと深い。 「幻夜」では、ホテルが舞台としてしばしば登場する。 別人になりすます彼女が、初めて刑事と対峙する場所として選んだのは、「ウェイターというよりギャルソンと呼ぶほうがふさわしい黒服」がサービスする「水天宮の近くにあるホテルのティーラウンジ」。ロイヤルパークホテルであろう。 彼女が注文するのはロイヤルミルクティー。ここは、彼女に身も心も支配されている相棒の男との密談や、ターゲットの中年の金持ち女性のシーンなどでもしばしば出てくる。東野さんのお気に入りのホテルなのだろうか。 相棒の男がその金持ち女性と着物の展示会に出かけるのは、「歴史も威厳もありそうな正面玄関」の赤坂にあるホテル。これはニューオータニのようだ。 おぞましい犯罪の舞台に使われるのは、「日比谷にあるホテル」、とあるだけで他の描写はない。隣合わせたシングルルームが犯罪に使われるのだが、廊下を行き来する不審な二人の行動は、監視カメラにしっかり記録されているに違いない…。 ラストシーンの船上パーティーの前、彼女の犯罪を確信しひとり追い続ける刑事が彼女に勝負をかけるのは「竹芝にある有名ホテル」。 となるとインターコンチネンタル東京ベイしかないと思われるが、なぜかここだけ「有名ホテル」と書かれている。 彼女はフロントの奥のエレベーターホールから「一際輝く女」として現れる。 二人が対決するのは彼女の部屋、二十階の二○五五室。これは存在しない部屋である。 そこで彼女は白い毛皮のコートを脱いで真っ赤なドレス姿になる。後ろにはきらめく夜景。悪い女は「借景」の効果をよく知っている。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.75より 服部真澄とホテル 服部真澄さんのデビュー作であり、代表作でもある「龍の契り」は香港の中国返還を巡る国際サスペンスである。 香港といえば英国植民地の象徴でもあるペニンシュラ香港が登場するシーンがけっこうあるのではと思いきや、作中にペニンシュラが登場するのはスターフェリー・ピアへ向かう登場人物が「ペニンシュラホテルの角を曲がった」というわずか一文のみ。 有名なロビーラウンジはおろか、ホテルの外観の描写すらない。服部さんに何か意図があってのことか、あるいは単に訪れる機会がなかったのかはわからないが、古民家や骨董品を愛し、職人仕事好きの彼女が描くペニンシュラを読んでみたかった。 一方、かなり詳しくホテル描写がされているのが、九龍サイドのホテル日航香港。ソニーがモデルと思われるハイパーソニック社の社長が香港を訪れた際に宿泊するホテルとして登場する。 大賀元社長がモデルと思われる西条社長が外務省の人間と会う場所として指定したのは、同ホテル十五階のニッコー・ラウンジ。 「ビジネス・アテンダントと呼ばれる美しい女性をエグゼクティヴラウンジに置くのが、最近のホテルの歓迎すべき習慣になっている」とあるが、「最近」とは九三年頃のことだ。 大物政治家の元秘書が上海香港銀行の頭取と取引するために香港を訪れたときに泊まるホテルは、「ハーバーフロントに建つシェラトン香港」。 「部屋に落ち着くと、すぐに、ウェルカム・ドリンクが運ばれてきた。香港のホテルは供給過剰で、どこのホテルもサービスを競っている」とあるが、まだウェルカム・ドリンクが珍しかった時代だったことを思わせる。 アメリカに舞台を移してのシーンで、中国系アメリカ人の有名女優がロサンジェルスで使うのはハリウッド俳優たちの御用達ホテル、ビヴァリー・ウィルシャー・ホテル。 「あのホテルには、『プリティ・ウーマン』でジュリア・ロバーツが使ったスイートがあるんだぞ」と登場人物に語らせている。 後に服部さんは「清談 佛々堂先生」という作品の中で、「研修の名目で最上級の宿やホテルのスイートを泊まって回る」関西の有名旅館の女将たちについて書いている。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.74より 深田祐介とホテル 日本航空でサラリーマン生活を送った深田さんの小説には、その町の雰囲気を伝えるホテルがよく登場する。 「暗闇町人」は、一九八六年の三井物産マニラ支店長誘拐事件をモデルにしたものだが、犯人グループの裏にいたと言われる日本赤軍がヨーロッパで実行犯として関わった日本人の北朝鮮への拉致事件までからめた長編である。 日本人商社マンでロンドン研修中の男性主人公・安原伸彦が、休暇でやってきたイラン支店長夫妻を迎えるのは、イン・オン・ザ・パーク(現フォーシーズンズ・ロンドン)。 「洗練されたインテリアと、食事が美味なことで有名な、一流ホテルである」とされ、チェックイン後にロビーでハイ・ティーを飲むシーンが描かれている。 「紅茶と一緒にサンドイッチやスコーン(菓子パン)をつまむ」とあるくだりを読むと、この小説が書かれた当時はまだスコーンというものが一般的に認知されていなかったことがよくわかる。この小説が書かれた一九九二年当時、ここはフォーシーズンズが北米以外に持つ唯一の海外ホテルであった。 ブリュッセルで商談のため安原たちが泊まるのは、「古い大きなホテル」で「まるで中世から使っているような、大型の鍵」を使うメトロポール。アールヌーヴォー建築で有名なホテルである。 ジュッセルドルフでは「ライン川のほとりの現代調、十九階建てのホテル」であるライン・シュテルンが登場する。一階の奥にあるサウナは男女混浴で、初体験の安原を驚かせる。これは今でも同じである。 ウィーンで食事するのはホテル・ザッハーのダイニングルーム。「重厚な印象だが、子ども連れの家族客も多くて、賑やかであった」とある。欧州の名門ホテルでも意外にそんなことがある。 マニラで登場するのは、マニラ・ホテルのスイートルーム。「米国植民地時代にマッカーサー将軍が暮らした、もっとも歴史が古く、格調の高いホテルである」。当時はここが最高級だった。 東京での結婚式シーンで、関係者たちが「結婚式場の聖イグナチオ教会に近い」という理由で泊まったのはニューオータニ東京。確かにそういう理由でこのホテルに泊まる人は多いようだ。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.73より 城山三郎とホテル 城山三郎さんといえば、日本の高度成長を支えたビジネスマンたちに圧倒的に支持された作家である。社内の派閥抗争、島流し、左遷など、組織の歯車にされたサラリーマンの悲哀を描いた作品も多いが、実は城山さん自身は会社勤めした経験はないのだという。 昭和四十九年に発表された短編「遠くへお仕事に」では、政治家がらみの不良貸付問題をうやむやにするため、大金を持って海外に逃亡したことにされた、ある銀行の貸付係長の男が主人公。 会社の指示は、「できるだけ遠くへ」。 シンガポールでの逃亡第一夜、彼は、「まわりをヤシの林に囲まれていて、静か」な高級ホテルに宿をとる。シャングリラだろうか。 翌日、外出先から帰った彼は、汗をかいたランニングシャツを風呂場で洗い、部屋の帽子かけに干しておいたのだが、またあくる日、洗濯したシャツを干そうとすると、そこに洗濯袋がかけてあった…。彼はホテル側の無言の非難を感じたのだった。これは、もしかして、城山さんご自身が海外のホテルで経験されたことなのだろうか。 昭和四十二年に発表された「成算あり」は、魑魅魍魎とした不動産業界を舞台にした作品。「金こそ力である」と信じるに至った主人公が、この人と見込んだ不動産会社社長の下に飛びこみ、複雑怪奇な業界で生き抜くことを覚えていく話である。 「結婚式は、公営の結婚式場で最少の費用であげた」彼が、花嫁と向かったハネムーン先は、「皇居前のホテル」。これはパレスホテルであろう。 「合理的且つ功利的な考え方」の彼にとって、「新婚旅行は…どこに居たって、眺めるのは、相手の顔ばかり。…目的はホテルの中だけで十分、果たされる」ので観光的要素は必要ない。 もっとも、新婦は高級ホテル滞在を「夢があるのね、あなた」とロマンチックに受け取った。男と女の間には深い溝があるのである。 ここで彼は合理主義の権化のような社長にばったり出遇う。「このホテルで何を」と問う彼に、社長は答える。 「何もしてやしません。ここはわたしの別荘ですよ」と…。 城山さん、粋な人だったのだ。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.72より 藤原伊織とホテル 2007年5に59才で亡くなった藤原伊織さんは、前号で書いた石田衣良さんと同様、広告業界出身の作家である。東大仏文科を出て電通に入社、2002年に退社するまで二足のわらじを履き続けた。 石田さんの場合、「広告業界出身の…」という枕詞は目端がきく要領の良さや軽さをイメージさせるが、藤原さんの場合は、違う。 目端は人一倍効くものの、効き過ぎで、気づかない方が幸せなのに、つい余計なものまで見えてしまう性質だったように思える。 「シリウスの道」の主人公、辰村は、自分なりの筋は絶対曲げない頑固さを持ちつつ、組織人としての身の程もわきまえ、「他社がもっとも敵にまわしたくない広告マンのひとり」であるキレ者である。 ある日、クライアントの社長であり、はるか昔に思慕していた幼なじみの夫でもある半沢に、新宿西口のホテルに呼び出される。四十八階にあるゲストルームというから、これはパークハイアット東京しかない。 辰村は、ルームサービスでウィスキーを注文した半沢がワゴンを運んできたボーイに声をかける「その言葉づかい、声音ひとつとってみても、確かに凡庸な二世ではない」と見抜く。藤原さん自身がそういう人を観察する眼を持っていたのであろう。 直木賞受賞作の「テロリストのパラソル」では、元警官のヤクザがいつになくダークスーツにレジメンタルタイという「丸の内を歩いていてもまったく違和感ない」いでたちで辰村の前に現れ、山下公園のそばのホテルの新館タワーへ誘う。これはホテルニューグランドだ。 「蝶ネクタイのホテルマンが私をいんぎんな無視で迎えた」このホテルについてヤクザは、「ここも最近、ガキどもがうるさくなった」と言い、「ウィークデイの昼過ぎのホテルは悪くない」と、昼間からウィスキーが飲める一階のラウンジの、旧館との間の中庭が見える席につく。 このホテルの使い方をよく心得ているのが伺えるが、かなりの酒飲みだったという藤原さんもここで昼間からウィスキーグラスを傾けていたのだろうか。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.71より 石田衣良とホテル 広告業界出身でスタイリッシュさが売りもののひとつの石田さんの代表作、池袋ウエストゲートパーク・シリーズの主人公マコトは、地元の工業高校を出た後、池袋の商店街で深夜の酔っ払い客や近所のぼったくりバー相手に商売している実家の果物屋の店番をしているという、まったくスタイリッシュではない設定。勉強は大嫌いだが、問題解決能力を買われ、池袋界隈の「トラブルシューター」として活躍している。 作中、時々登場するのが、マコトが幼い頃かわいがってもらった近所のお兄さん・礼にい。東大文I出の警察キャリアで、現在は池袋署の署長。ポール・スミスのスーツを着て、バーボンが好きという人物。 マコトが表には出せない協力をしたお返しに彼に要求するのが、池袋のホテルメトロポリタン二階のバー「オリエントエクスプレス」での一杯。 マコトにとってはえらく高級な場所だが、わざと高い酒をがんがん飲んで薄給の官僚の懐を痛めさせるのを楽しみにしている。このホテルはシリーズ中、しばしば登場する。 マコトが礼にいに頼まれた仕事で泊まった朝、西口公園を見下ろすスイートルームで、これくらいの贅沢をしても許されるだろうとルームサービスで朝食を取るシーンがある。 温められたバターロールにさすがホテルだと感激するかわいいマコトだが、工業高校時代からの友だちで池袋界隈のガキどもを牛耳る超クールなボス・タカシは、ミーティングの場所にこのホテルの「二番目に広い」エグゼクティブスイートをさらりと使ったりする。 「死に至る玩具」は、世界的な玩具メーカーが中国の劣悪な労働環境の工場で製造している人気玩具の光と影を巡る重いテーマだが、外資系玩具メーカーの抜け目なくキザな広告部長は、マコトとの手打ちの場所に、フォーシーズンズ椿山荘を指定する。 石田さんは、「イタリアの大理石とか金メッキとかに、致命的アレルギーがある」マコトにこう言わせる。「高級ホテルなんて落ち着かない」。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.70より 平岩弓枝とホテル 根っからの旅好きの平岩弓枝さんは、往復の飛行機の中で原稿を書くはめになっても、時間を作って精力的に世界各地を旅してまわってきたそうである。 そんな平岩さんの海外を舞台にした小説には、しばしばその土地の有名ホテルが登場する。 ホテルの沿革や泊まった感想なども登場人物を借りてていねいに書きこまれているので、へたなガイドブックよりもよっぽど役に立つ。 一九七五年にサンケイ新聞で連載された後、単行本化され、文庫版は今なお版を重ねている人気作のひとつ「女の河」には、ミラノ郊外のコモ湖畔にたつヴィラ・デステが登場する。 晴れた空の下でこそ濃いブルーの湖面が輝いて最も美しいと思っていたこのホテルだったが、作中では、小雨に煙る秋の日が舞台。 湖に面した庭をマロン色の傘をさし、恋い慕う人と肩を並べて歩く主人公を描いた導入部のシーンは美しく印象的だった。 それも、庭に面して全面ガラス張りのダイニングルームの中から、相手の男性の若い婚約者の目を通したシーンとして描かれている。 終盤の哀切なシーンで再びこのホテルが登場する時は、「今がたけなわという感じ」の花咲き乱れる春なのだが、それも、主人公の悲しみはそれらの色をすべて消し去るほどに深いことをきわだたせて描くための設定のように思える。 ヴェネチアで主人公が泊まるホテルは、おそらくダニエリであろう。主人公はホテル最上階にあるダイニングルームのテラスからアドリア海の眺めを楽しんでいる。 平岩さんはここで食べたシーフード・スパゲッティ・ヴェネチア風という、魚介類が贅沢に入った濃厚なトマトソース味のスパゲッティがいたくお気に召されたようで、後に「犬のいる窓」という小説で登場人物に作らせている。 一流商社の社長の夫と共にパリで泊まるホテルは、リッツ。 ラストシーンで共に面の皮がどこまでも厚い政治家と一流商社社長の子供達の披露宴の場は、日比谷のホテルとして描かれる帝国ホテル。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.69より | ||||