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ホテル情報誌「ホテルジャンキーズ」
特集記事より



もうひとつの
「山の上ホテル物語」



















誰にでも合わないホテル(国内)

まず最初にことわっておきたいが、山の上ホテルは豪華なホテルでもないし、高級ホテルでもない。

クラシックホテルに見えるが、建物は古いもののホテルとしての歴史は半世紀あまりにすぎない。

インテリアにこれといったスタイルがあるわけでもなく、家庭的な雰囲気といえば聞こえはいいが、言ってみればホテルのインテリアとしてはアマチュアっぽく中途半端なところもみられる。個人的に言えば、特別好きでもない。

では、いったい何がいいのか。

サービスがいいのかと問われると、それもまた違う。ここは、誰でも満足がいくサービスを受けられるようなホテルではない。お愛想やお世辞、おべっかの類が好きな人にはまず向かないし、洗練されたサービスや、一を言えば十を知り、打てば響くようなサービスが好きな人にも向かない。スタッフたちは、言われたことは誠心誠意一生懸命やるが、功をねらうようなことは決してしない、というよりできない。

地味で目だたないが、あとからじんわりと効いてくる、膏薬のような、わかりにくいサービスのホテルなのである。

ホテルの世界というのは、ある意味ではっきりした世界で、お金さえあれば、ほとんどのものが手に入る。

超一流といわれる高級ホテルの豪華スイートルームに泊まり、チップをはずめば、スタッフたちはかしづいてくれ、おそらくたいていの望みがかなうだろう。

プライベート・バトラーやプライベート・シェフを雇うことも、プライベート・ドライバー付きのロールスロイスもみんな思うまま。超一流ホテルの上客であるという錦の御旗をバックにすれば、街の一流レストランから高級ブランドショップまで、どこに行っても下にも置かない特別扱いをしてくれるだろう。

そういう、お金の力が効く、わかりやすい世界がホテル界である。

ところが、ここ、山の上ホテルではそれがまったく効かない。というより、いいサービスを受けるのにお金は関係ない。

このホテルなりの良さがわかり、価値観が合う人は、たいへん居心地よくすごせ、好きになるだろう。

しかし、このホテルのお客としてふさわしくない、あるいは合わない客に対しては、それなりのことはするものの、迎合して合わせることはしない。実に頑固でへんくつなホテルなのである。

つまり、誰にでも合わないホテルが山の上ホテルであるといえよう。

開業以来、今日にいたるまで、このホテルを愛し、常宿とした作家など文化人は多いが、そうした人たちには常人の枠をはみだした強烈な個性をもった人、てっとりばやくいえば、変わり者が多い。

彼らの中には、無頼派といわれたり、放浪癖があったり、どうしようもない大酒飲みだったりと、ひと癖もふた癖もあるような人もいる。が、実は根がまじめすぎて、何事もほどほどの人生を送るには不器用で、シャイな人が多いように思う。

そんなふつうのスケールでは計れない人たち、言いかえると、ふつうではもう疲れが取れない人たちが、このホテルをこよなく愛し、時に無防備な姿をさらして甘えた。

逆に、そういう器が並ならぬ人たちであったからこそ、このホテルを使いこなし、わが家以上の常宿とすることができたのだと思う。


吉田俊男というひとりの男

こんな、日本のホテル界には他に例をみない、変わったホテルをいったい誰が作ったのか。

創業者、吉田俊男は大正二年、西暦でいうと一九一三年十一月十一日に生まれた。蠍座の男である。

東京市小石川区高田老松町五十二番地が出生地で、父は高名な国文学者の吉田弥平。その次男である。

弥平は当時、東京高師の教授で、中学の国語教科書の編纂者でもあり、裕福な家庭だったらしい。義兄は俳人の水原秋櫻子。生家は学者気質のお堅い一族だったようだ。子供時代の記録は残っていない。

東京商大(現在の一橋大学)卒業後、昭和十二年旭硝子に入社。昭和二十一年、一度退社するが、二十二年復職。渉外課長、経理部長付をへて退社する昭和二十七年、三十八才まで会社員としてすごした。

もっとも、ふつうのサラリーマンとは違い、ほとんど築地の料亭から会社に通うような暮らしだったが、代金はすべて会社払い。つまり、それだけの仕事をしていたのだろう。

退社後、スキヤ橋教文館に設立したのは国際経済研究所という市場調査の会社である。まだ日本にはマーケットリサーチという言葉も概念もなかった時代のことである。先を見る目は持っていた。

もっとも「何も仕事が見付からぬ前に事務所を持たうとする理由は、気持ちの置き場を作らうとするためだ。」と書き残しているように、何かをやりたいとか具体的な目算があってのことではなかったようだ。

山の上ホテルを設立したのは、その翌年、二十九年のことである。

山の上ホテルを始めるきっかけとなったのは、米軍とのビジネスの折衝に関与していた折り懇意になった日系二世の米軍の顧問弁護士から、米軍が接収しヒルトップホテルと呼ばれていた建物が接収解除になると聞いたことだった。ちなみに吉田は英語、ドイツ語が非常に堪能だったそうだが、めったに人前で話すことはなかったという。

しかし、どうしてここでホテルビジネスをやろうと思ったのか。記録には何も残っていないので推測にすぎないが、旭硝子時代に海外とのビジネスにも関わり、国際事情にも通じており、これからの日本で観光業が大きく伸びることをビジネス的に見越していたのであろう。

そして、もうひとつ。これもあくまでも私の推測であるが、妻の令子(のりこ)のことが大きかったと思う。

令子は妻であると同時に、山の上ホテルの経営において、生涯を通じて吉田の無二のパートナーであり、ホテルの事実上の運営責任者でもあった。

自分が好きな人以外の人と会うのがきらいだった吉田の代わりに、渉外関係はほとんど令子が担当した。吉田が平成三年に亡くなった後は、吉田との娘の子供である孫の森裕治に経営を引き継ぐまで、社長、会長とつとめた。

吉田とは共に再婚どうしだったが、お堅い国文学者の家系である吉田家は、家風がちがうという理由で令子との結婚にはいい顔をしなかったようだ。「結婚する時はずいぶんと反対されたのよ」と令子も後に社員にもらしている。

その令子と二人で一緒に始めたのが山の上ホテルであった。吉田はハンサムでお洒落でダンディーである。感性に恵まれ、頭も抜群にきれる。女性にはもてたにちがいない。そんな吉田が恋した女性が令子だった。

吉田が残したメモにこんなものがある。

『美しくなることはできてもチャーミングであることは大変なのだ』

何について言っているのかはわからない。けれど、吉田の女性観をちらりとうかがわせるものだ。

ホテルの創業にあたっては、吉田も父の遺産をかなりつぎこんだが、令子もまた実家の資産をつかった。

仕事が大好きで、社交的な令子は、吉田の代わりに外との交渉を担う一方で、吉田の陰ともなって支えた。吉田は若い頃は社員に向かってメチャクチャに怒鳴りまくることがよくあったというが、その後でいつもフォローするのが令子だった。

また、インテリアが好きな令子は本館の客室をはじめ、コーヒーパーラー「ヒルトップ」などのインテリアを自ら手がけ、食器などの備品類も自ら選んだ。

もちろん、苦労も多かったと思う。一時、お金の苦労もあったようだ。しかし、山の上ホテルは令子にとって、吉田と二人で産みおとし、育てた子供と同じで、最高の自己実現の場でもあった。

こうしてみると、吉田は令子のための「場」を用意したような気がする。ビジネスの大きなところは自分がみて押さえつつ、令子が持っている才能を活かせて、いきいきと輝いて楽しく働ける場、それがこのホテルだったのではないだろうか。

もちろん吉田自身、こうしたこじんまりしたホテルの経営はきらいではなかったであろうし、純粋に人を喜ばせることが好きなたちだっただけに、大いに楽しんでもいたと思う。はたからは「天職」と見えるほどに仕事にも力を入れた。

けれど、吉田自身のビジネスの才能や器は、こんな小さなホテル経営ではとてもおさまりきらないように私には思える。

旭硝子時代は非常に優秀なビジネスマンだったという。ビジネスセンスはあるし、先もよく読めた人だった。だから、本人がやる気になればればうんと金儲けもできただろうし、もっと大きなこともできたであろう。

しかし、吉田は三十八才で会社を辞め、新しい人生を歩もうと決心した時、そうした営利の世界にあえて背を向けたように思う。

そもそも、吉田は「金」というものが大きらいだった。価値を認めていなかった。

「金が一番美しく感ぜられる時は恐らく、一月の労働賃として肉体労働者が金を受け取り、それを握ったまま、米の一升も買ふ時だ。この様な、金の用役のみが尊敬に値する」

こんな若い頃の書き残しがあるが、吉田の非常に純粋で繊細な部分が感じられる。

だからこそ、吉田が多感な二十代、三十代を送った戦争前夜から戦後にかけての時代。価値観が二転三転し、人が自らが生き残るために平時には思いもよらぬ醜い顔をも見せた時代、彼のような人間が少なからぬ屈託を持たないはずがない。この間に、あまりにいろいろなことを経験してしまったのではあるまいか。

ホテル創業前にはやめたというが、吉田は睡眠薬も二十年間常用していたという。薬なしには眠れない日々があったのだろうか。こんな言葉を書き残している。

『人は生き 戦ひ そして 死んだ

色んな「たたかい」があったっけ』


優れたホテル経営者

「山の上ホテルは吉田さんが趣味で経営しているようなものだ」などと言った人もいたようだ。けれど、私はそうは思わない。好き嫌いに関わらず、吉田はこと仕事においてはプロに徹した。ホテル経営者としては非常に優れた経営者だったと思う。

ホテルとはそもそもふつうのビジネスとはちょっと肌合いがちがう文化産業に属するものである。もし趣味でやっているように見えるとしたら、それは大成功である。

吉田のやり方は、外目には趣味に見えながらも、人には見せない水面下では抜群のビジネスセンスで将来を見据え、押さえるところはしっかり押さえた、ある意味、経営の王道をいくものだったと思う。

吉田から直接に教えを受けた最後の世代であり、晩年の最後の五年間を共にすごした、現在副総支配人の白野直樹には、こんな記憶がある。

ある日、お客からの手紙にはすべて目を通していた吉田が、「シャワーカーテンが臭い」という苦情を読み、すぐに客室担当だった白野を連れて全館全室みてまわった。一室ごとに吉田がシャワーカーテンの匂いをいちいち自分で嗅ぎ、この部屋のは臭い、臭くないとチェックし、臭い部屋のシャワーカーテンを交換させたのだという。

また、ある日、吉田に呼ばれて部屋に行くと、机の上に祝儀袋が置いてあり、ふだん社員相手には立ち上がることがない吉田が立ち上がって白野を迎え、「ありがとう」と深々と頭を下げたのだそうだ。

突然のことに何事かとびっくり仰天する白野に、吉田は「よくやってくれている」と主任への抜擢を告げた。当時、主任になるとタキシードを着ることになっており、社員たちの目標と憧れでもあった。

吉田はしばしばこうした意表をつく人事をやったそうだが、現場には大いに刺激にもなり、職場が活性化されたという。

吉田のホテル経営者として類稀なことのひとつは、スタッフの教育に惜しまず金を投資したことである。おそらく、自らの海外経験から、サービスする側の者が海外の優れたホテルを客として経験することの大切さを実感していたのだろう。

 創業時の社員のひとりである秋山祐介は、入社して七年目の昭和三十六年、ヨーロッパ各地のホテル視察を命じられた。二万円の給料の時代に、旅費として渡されたのが八十万円。その時の記録は「ホテル屋の見たヨーロッパのホテル」(発行者・吉田俊男、発行所・山の上ホテル)という小冊子で残っているが、その序文に吉田はこう書いている。

「従業員に出来る限りの機会を与へて、各地の一流ホテルを見学させることが、私たちのこの小さな古ぼけた山の上ホテルの質に自信を持たせ、ひいてはここのサービスを一層向上させることになるのではないかと考へるようになりました。」

表紙の写真にマルセイユの魚河岸で撮った魚屋のおばちゃんの写真を選んだのも、おそらく吉田であろう。市井で日々、愚直だがはつらつと生きる人や職人気質の人を愛した吉田の人となりが感じられる。

さて、吉田は社員の海外視察旅行にあたり、いくつかのことを命じた。

「その土地で最高級のホテルに泊まれ。その土地の、魚河岸、問屋、野菜市場をはじめすべてその土地固有の商店を見てくること。それに一日一度は必ず一番安いメシ屋でその土地の運ちゃんや労働者の食べるものを食べろ」(「ホテル屋の見たヨーロッパのホテル」より抜粋)

その街を頭や理屈ではなく、体と実感でとらえる最良の方法である。

吉田のホテル経営の次の夢は、大衆的なグリル経営だったという。

吉田の理想のグリルとは、「昼はランチ、午後は英国式ティータイム、夜は一寸したごちそう」を出す店で、学生やサラリーマンなど「学ぶ人や働く人のフトコロを常に考える商売に徹したい」。本館のコーヒーパーラー「ヒルトップ」にその面影が少し見られるように思う。

吉田の口癖は、「ほかでやれないことをやれ」。

吉田がきらいだったものは、「マニュアル」、「インスタント」、「省力化」。それを愚直に守ってきた結果が今の山の上ホテルである。

最後にひとこと。そんな山の上ホテルだから、決して、万人の皆さんにはおすすめしない。ちょっと固くて噛みごたえがあり、味もとっつきにくい。世の中の流行には興味なく、頑固でへんくつな方、気が向いたら足を運んでみてください。


■HOTEL HISTORY

建物を見るとかなり古いクラシックホテルのように見えるが、ホテルとして営業を始めたのは一九五四年(昭和二十九年)と意外に新しく、今年で創業五十二年目。

独特のジグザグ・ファサードが印象的な建物は、アメリカ人建築家・ヴォーリスの設計によるもので、一九三七年、財団法人日本生活協会によって建てられ、第二次世界大戦がはじまると海軍に接収された。

戦争が終ると、今度は駐留した米軍に接収され、WAC(陸軍婦人部隊)の宿舎となった。坂を登った丘の上というロケーションと、当時はまだ高い建物がまわりになく、神保町界隈から東京一帯が見渡せた眺めのよさもあり、米兵たちの間では「ヒルトップ」の愛称で呼ばれていたのが、今のホテルの英語名として残っている。

一九五三年、米軍より返還された建物をホテル創業者の吉田俊男氏が、受け継ぎ(当初は賃貸、後に土地・建物共に買い取った)、リニューアルし、翌一九五四年、「山の上ホテル」としてオープンした。

それまでホテル業にはまったくの素人だった吉田氏が利用者の側の視点に立ち、ひとりの目で作った、日本では稀有な出自を持つホテルである。サービスにおいても、あえてスマートさは求めず、業界慣れ(ズレ)していない愚直さをよしとするスタイルを貫いている点でも日本では稀な存在といえよう。


■このホテルを愛した作家たち

池波正太郎

吉行淳之介

三島由紀夫

山本健吉

檀 一雄

山口 瞳

田村隆一

川端康成

松本清張

井上 靖

中村眞一郎

小林秀雄

吉田健一

船橋聖一

石坂洋次郎

高見 順

五味康祐

田辺聖子

常盤新平

伊集院静

トーベ・ヤンソン(「ムーミン」シリーズの作者)



*情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.56掲載特集記事より抜粋。

詳しくは「ホテルジャンキーズ」第56号をご覧下さい。