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ホテル情報誌「ホテルジャンキーズ」 ホテル・ストーリー ホテルを舞台にしたショートストーリーです。 ホテルのさまざまなセクションで働くホテリエ、 そしてゲストには、 みなそれぞれの物語があります。 村瀬千文のホテル・ストーリーの世界をお楽しみください。 ■That's what I wanted. 総支配人付きの物語 何のとりえもない。自分でもそう思います。私なんか、別にいてもいなくても変わりはないんじゃないでしょうか? 先日、休憩室でお茶を飲んでいたとき、「キースって、どこかで遇ったことがあるなぁってずっと思っていたんだけれど…」って同僚のミミが吹きだして指さしたのは、サイの写真でした。 サイ、知ってます? 動物園にいる犀です。あのずんぐりむっくり、もっさりした感じ、確かに似てます。私も思わず、ああ、うまいこと言うなぁと思いましたよ。 言われたことはせいいっぱい努力してやってるつもりですが、一歩踏みこんでお客様のお気持ちを察してサービスする…なんていうのはまったく不得意です。 無理ですね、私には。 ◇ ◇ ◇ ホテルマンになりましたのは、偶然です。 ちょうど景気が最高に良い時でしたので、ホテルも連日大にぎわいで、人出不足だった時に、たまたまその辺にぼーっとつっ立って暇そうにしていた私が目に入ったって、ところでしょうかね。 元々は食材をホテルに卸す会社に勤めていたんです。ある日、大きなパーティーがあるっていうので、ふだんは内勤の私も納品の手伝いにかりだされましてね。購買部で商品の検品に立ち会っていたところ、外の廊下で料理を積んだカートどうしがぶつかって大騒ぎになりましてね。 散乱する料理や皿を片づけたり、ユニフォームが汚れたウェイターたちの着替えをランドリー部に取りにいったり、泣きだす女の子をなぐさめたり、とにかく、目につくまま、声をかけられるままに、手伝いました。 そのうち、誰も私のことを外の会社の人だなんて思わなくなったようで、「アンタ、名前なんだったけ?」「キースです」「じゃあ、キース、これ会場に持っていって」なんて言われまして。 会場に行けば行ったで、「ああ、キース、受付のヘルプ、頼むよ」。もう戦争のような状態でしたから、無我夢中でその時々に求められることをやって働いているうちに、パーティーも無事終わりました。 キャンティーンでおつかれさん会になりましたので、「じゃあ、私はこれで帰らせていただいてもよろしいでしょうか?」って言ったら、「どこに帰るんだい、キース?」ってみんな不思議な顔で私のことを見るんです。「あの、いちおう社の方には一度戻らないと…」「会社って、キース、あんた…」。 そこに購買部からウチの担当さんがやって来まして、「キースさん、会社から電話しろって何度も電話入ってたみたいですよ」って、メモを持ってきまして。 まあ、そんなことがありまして、たまたまその場に慰労にきていたGM(総支配人)のトレイシーさんが、「なんだ、君、ウチのスタッフじゃなかったのか。いっそのこと、ウチで働かないか?」。 会社の方も、ホテルは大のお得意さんですし、私もまあとりたてて重要な人材ではないってことで、「いいですよ」って二つ返事。もう、二十年も前の昔のことです。それでまあ、今、ここにこうしているわけです。 私の部署ですか? いちおう、入社以来、ずっと総支配人付きってことにはなっていますが、まあ、なんでも屋です。 ◇ ◇ ◇ 「ねぇ、キース、ちょっといいかしら?」 私の一日はだいたい、こんなふうにスタッフの誰かが訪ねてきて始まります。朝はいつも七時にはオフィスに着いていまして、コーヒーは自分でいれますが、ちょうどコーヒーが入る頃、誰かかれかがやってきて、一緒に朝のコーヒーを飲みながら、雑談するわけです。 今日は、マーケティング部に配属されたばかりのアイリーンが鼻にちょっとしわをよせながらやってきましてね。彼女は優秀な成績で大学のホテル学科を出た幹部候補生で、企画には抜群のセンスを見せるのですが、現場スタッフたちとのコミュニケーションがどうも苦手で…。今日もその相談というか、私にできるのはグチを聞いてあげるだけなんですが。 彼女と入れ違いにやってきたのは、ベルキャプテンのベンで、泊まり勤務を終えて帰る前にいつも「朝の一杯」を飲んでいくのが日課です。GM秘書のシャーリーも時々、「キースのスペシャルコーヒー、ご馳走してくれない?」なんて息抜きにやってきます。 ◇ ◇ ◇ その日、私はいつもより一時間ほど、早くオフィスに出てきました。 GM室をノックすると、いつものおなじみの言葉が返ってきました。 「Anybody is always welcome! 誰でもいつでも入っていいよ!」 これを聞くと思わず微笑んでしまうのはいつものことです。どんなに忙しい時でもトレイシーさんは変わりません。今のように経営難で、人員削減をきびしく求めてきているオーナーとの交渉で大変な時にも、私たちスタッフに向ける笑顔は変わりません。 「その人の本性はどんな時にもユーモアを持ち続けていられるかどうかでわかる」と言っていたのは、戦時中に捕虜収容所で苛酷な経験をした祖父の言葉ですけれど、私もつくづくそう思います。 「Problems are my good friends. 問題とはいい友だちでね。 さて、今日はどんな大問題かね?」 書類から目をあげて私にウィンクしてみせたトレイシーさんの顔を見て、私はつくづくこの方にお仕えできて良かったと思いました。今のこの瞬間の幸せを胸に刻んでじっくり味わいたくて、いつもよりほんの少しだけ間を置きました。 胸ポケットから昨晩、用意した封筒を取り出して、トレイシーさんのデスクの上にそっと置くと、 「なんだね、それは? パーティーの招待状かな?」 トレイシーさんは穏やかな顔で私の目をまっすぐにみつめました。 「これまで本当にお世話になり、この上なく幸せにお仕事をご一緒させていただきましたが、今のこの状況では私がいちばん先に身を引くべきだと…」 トレイシーさんは笑顔のまま黙っています。 「あの…、私、なんの取りえもありませんし。私にできることなんて、ただ、皆さんのお話を聞くことだけで…」 「 That's what I wanted. 私が望んでいたのはまさにそれだよ」 突然、トレイシーさんがきっぱりと、私の話をさえぎりました。 「そして、今、ホテルに必要なこともね。みんな誰かにちゃんと話を聞いて欲しいものなんだよ。お客様だって、そうだ。けれど、まっとうに人の話を聞こうとする人っていうのは、いそうでなかなかいないものでね。私もみんなと同じように君に話を聞いてもらうとほっとする。 I need you, Keith.」 私は顔を上げることができませんでした。頬にひなた水のような温かいぬくもりを感じながら部屋を出ようとすると、 「キース、これを」 トレイシーさんが、笑いながらハンカチを差しだしました。思わず私はこう答えていました。 「 That's what I need, Sir.」 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.79より ■I'm glad you are here. サロンにリブインしている九官鳥の物語 「なんだこのホテルは! 客を泥棒扱いするのか!」 朝っぱらからギャーギャーわめくなって。 アタシは目撃者なんだ。だからさ、さっきからさんざん言ってやってるんだけどね…。 いったい何があったってかい? 簡単に言っちまうと、お客のちょっとしたズル。すっとぼけて飲み食いしちまったってことさ。そもそもこんな高級ホテルに泊まるようなお大尽なんだから、ズルなんかすることないと思うんだけど、つい、ちょろまかしたくなるんだねぇ。おもしろいもんだ、人間ってのは。 あ、そうそう、自己紹介忘れてたけど、アタシは九官鳥。 「ザ・サロン」の軒先がアタシのマイルーム。室料と食事代はタダだけれどさ、その分、ちゃんと仕事はしてるんだよ、遊んでるように見えてもね。 ◇ ◇ ◇ このホテルのお客には、本館に泊まっている普通のお客とは別に、通称「メンバー」と呼ばれている特別会員待遇の顧客がいてさ、メンバー用には特別ラウンジ「ザ・サロン」があるんだよ。アタシもいちおう客層やら雰囲気に合わせて、静かにしたり、話し相手が欲しそうな人には話し相手になったり、けっこう気を使ってるんだよね。 でね、このサロンには二十四時間、ちょっとした飲み物やら食べ物なんかが用意されていて、メンバーたちはすべて無料。ちょっとした…だなんて、つい口真似しちまってホテルの「わざと控えめな」能書きどおり言っちまったけど、これは大嘘。口がさんざん肥えているメンバー向けに、シャンパン、ワイン、コニャックなどの飲み物はすべて通好みのヴィンテージもの。食材も選りすぐられた最高級品ばかり。 とりわけ朝食の品揃えといったら、アタシが自慢するのもなんだけどね、ホント、たいしたもんだよ 朝はミモザ(シャンパンとフレッシュオレンジジュースの贅沢なカクテルさ)をアイオープナーにして、極上のキャビアを銀のスプーンですくって食べるのが毎日の習慣っていうお客用には、氷の上にのせた銀の器にベルーガ・キャビアが山盛り。 自家製のスモークサーモンなんぞ、業務用真空パック入りのものの何倍ものコストがかかっているしろもの。これをトーストしたベーグルではさんでサンドイッチにして食べたいお客用に新鮮なサワークリーム、摘みたてのディルもちゃーんと用意してある。 で、何の話だっけ? 頭が小さいもんでね、すぐに忘れちまう。 ああ、さっきの騒ぎの張本人、X氏ね。この人、メンバーじゃなくて普通のお客なのさ。なのに、たまたまスタッフがちょっと席をはずしたすきにするりと入ってきて、一番高価なキャビアに突進。次いで、サーモン、生ハムとあわただしく口いっぱいにつめこみ、もう一回キャビアを…とスプーンに手をかけたところで、ウェイターのトニーが戻ってきたっていうわけさ。 「おはようございます。ご機嫌いかがですか? 何かお飲物、シャンパンでもお持ちいたしましょうか?」 さすがにこういうホテルはウェイターも違うね。X氏がメンバーではないことを知りつつ、にっこり業務用笑みなんぞ浮かべてるんだから。 口がいっぱいで目を白黒させているX氏をことさら丁重にテーブルに案内し、椅子をひいて座らせ、つまみ食いで汚れた指をちらりと見ると熱いおしぼりを差しだし、シャンパングラスをそっと滑らせるようにテーブルに置いた。 「他に何かご注文はございませんでしょうか? では、どうぞごゆっくり、ミスター…」 ふと考えるように首を傾げてみせ、 「大変失礼いたしました、お客様のお名前をうっかり失念してしまいまして…。誠に申し訳ございませんが、お名前を伺えますでしょうか?」 極上シャンパンの素晴らしい香りを胸いっぱいに吸いこみかけていていたX氏、むせかえったね。まったくトニーも人が悪い。でもまあ、彼もホテルマンだからね。 「私はここは何かなと思ってちょっとのぞいてみただけで、何も食べてはいないぞ!」 そう断固主張するX氏に、トニーは笑みを崩さず「どうぞ、これをお使いくださいませ」なんぞと言いながらナプキンを差しだした。思わず口のまわりをぬぐったX氏、キャビアの黒い粒がついたナプキンを見てギョッとなりキレたってのが冒頭の騒ぎってわけ。 ◇ ◇ ◇ 「おやおや、X様。どうなさいました?」 そこにおっとり刀で登場したGM(総支配人)のジャンセン。 「何か私どもが粗相でも致しましたでしょうか? キミ、いったいどうしたんだね?」 いちおうトニーを問いつめるフリなんかしてるけれど、ま、アタシが思うに出来レースだね、これは。 実はこのジャンセンがさ、X氏のチェックイン時に館内を案内しがてら、このサロンのことを説明した張本人なのさ。 「こっそりサロンに侵入されるお客様もたまにいらっしゃいましてね。そんな時には、百ドルほどご請求させていただきます」って…。 顔色が青から赤まで急速に移行し、がっくり肩を落としたX氏にジャンセンはやさしくこう言ったもんさ。 「 I'm so glad you are here. ここでお会いできてよかった。 実は一度こちらの朝食にご招待したいと思ってまして、今朝もばったりお会いしないかなぁ〜なんて思いながら歩いていたのですよ、X様。 もしよろしかったらですが、これからご一緒していただけませんか?」 な、いいホテルだろ? ◇ ◇ ◇ 「コラ、ちゃんと言えよ。バーカってさぁ。おまえ、頭悪いんじゃないの?」 このガキ…じゃないや、お坊っちゃま、キッズルームを抜け出しては、アタシの所にやってきて悪い言葉を教えようとする。無視してると時々、尻尾を引っ張ったりするけど、こういう奴には反応するのが一番よくないから、アタシは完無視。 で、帰り際につぶやくのさ、「バーカはおまえ」って。目まんまるにしてふり返る顔がおもしろいったらありゃしない。 「俺さぁ、金はいっぱいあるんだ。でも、女にはどうしてかモテないんだよなぁ…」 普段は金で他人のほっぺたをひっぱたいて生きているお客も、アタシの前でひとりになると素直になるみたいだ。だから言ってやる。 「オンナはショージキ。ジンセイ、むずかしい」。 「カミさんがね、ぶくぶく太っちまってさぁ、恥もなんもなし。まったくやだね」 いつもぐじゅぐじゅ女房の愚痴ばっかり言うお客には、こう言ってやった。 「ぜぇーんぶ、アンタのセキニン」 GMのジャンセンも時々ぶらりと立ち寄ってはこう言う。 「 I'm so glad you are here. おまえは私が言いたいことを代わりに言ってくれるからな」 誰にだって、鳥にだって、レゾンデートル、存在価値っていうものがあるんだよ。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.78より ■This is it. That's it. GMの物語 さあ、そろそろ出るとしようか…。 バックヤードとオモテを隔てるのはドア一枚だ。その厚さは十センチにも満たない。けれど「こっち側」と「あっち側」の差は大きい。 ドアには「Are you ready?(用意はいい?}」と書いたポスターが貼ってある。模範ヘアスタイルそのままの一分のすきもないスーツ姿の男がさわやかな笑みを浮かべた等身大の写真が僕をみつめている。 手前の壁の鏡を見ると、そいつと同じ顔のやつが、僕を見返している。手櫛で髪を整え、ネクタイを締め直し、「君のスマイルですべてのトラブルは解決する」と言われている笑みを惜しみなく鏡の中の僕に向かっていっちょう決めてみる。 ホテリエの鏡、模範がそこにいた。よし! さあ、出陣だ。 ◇ ◇ ◇ 大都会でもないけれどそれほど田舎でもない、中くらいの大きさの街にある、二番めくらいに格式と伝統があるホテル。ここが僕の職場である。勤めて二十年ほどになる。 別にここのホテルマンになりたくて狙って入ったわけではない。 なんというのか、まあ、野心がないタイプといえば、僕はまさにそういうタイプ。 いわゆる闘争心みたいなものは、みんな上と下のきょうだいたちに持って行かれた。 七人きょうだいの四番目など、いなくても誰も気づきはしないものだ。六つのクリスマスの時など、昼間遊び疲れて部屋で眠りこけていたら、ディナーの間、ずっと誰にも気づかず、クリスマスツリーの所にプレゼントが残っているのを見た母がようやく「あら、アンディがいないみたい…」と気づいたほど。 そう、存在感ゼロな子供が僕だった。日向と陰があれば、迷うことなく日向を選ぶきょうだいたちの中で、僕はひとり陰を好む、まあ、じじくさい子供だったのだ。 だから、上下のきょうだいたちがそれぞれ順当に才能を発揮している(学業で優秀賞を獲ったり、スポーツで花形選手になったり)かたわらで、僕はひとり静かに地味に、けれど、充分幸せを感じながら生きていた。 ひとり遊びが好きだったせいか、きょうだいたちには「LMA」と呼ばれていた。「Leave me alone.(ほっといて)」の略。今でも、兄や姉は「LM」とさらにもう一文字省略して僕のことを呼んでいる。 僕以外の優秀なきょうだいたちは皆、それぞれのジャンルで抜きんでた医者や弁護士や学者や芸術家になったが、僕は大学を出ると、地元の二番手ホテルに応募して試験を受け、入社した。 僕が応募したポジションは、ホテルといってもお客様の前には出ないバックオフィス。数字関係はわりあい得意だったし、自分としては向いている仕事につけて良かったと思っていた。 ところが、初出社の日、早めに出かけた従業員入口で、オーナー兼総支配人のフレミングさんに目をつけられたのが、僕の人生を変えた。 ◇ ◇ ◇ 「おはよう。君の顔は初めてみるね」 「今日が初出社の者です。アンドリュー・ランカスターと申します。どうぞよろしくお願いします」 相手が誰だかわからなかったので、いちおう汎用性があるほどほどの笑みを浮かべ、汎用性がある挨拶をした。 すると彼は、僕の顔をじっとみつめたまま受付デスクの電話を取り上げた。 「ランカスター君の配属部署はどこかね?」 相手の答にちょっと眉を寄せると、 「わかった、では変更する。ひとまず、私付きに」 私付き? って…と考える間もなく、フレミングさんは「付いてきなさい」と歩き始めた。秘書が僕を促し、一緒にエレベーターに乗り、最上階のGM室に向かった。 フレミングさんは大きな絵画がかかった壁の前のデスクにどっしりと座ると、黙ってつっ立っている僕に向かってひとこと言った。 「That's it.」 次のセリフを待っていたが、何もない。 黙ったままみつめあう、祖父ほどの年齢の老練な男と、できれば地味に目立たず生きていきたいと切に願っているひよこのような若造。勝ち目なんかありっこない。しかたなく、僕が口を開くはめになった。 「あの、それで、僕の仕事はどのような…」 じいさん…僕はこっそりこう呼ぶようになった…は、じっくり時間をかけて僕の困った様子を味わい楽しむと、こう宣言した。 「私が言うことは何でもやる、That's it.」 ま、これも運命だろう。すべての疑問や困惑や逡巡は、すべてこの一言で洗い流した。 僕が観念したのがわかったのか、じいさんがにやりと笑って尋ねた。 「君は、目立たないようにして生きてきただろ? ほっとくと陰を選んじまう」 図星をつかれた僕がびっくりして黙っていると、 「どう生きるのも自由。けれど、才能は使い惜しみしちゃいかんよ。君はホテリエに向いている。That's it.」 な、なんで、僕なんかが? なんて考える暇もなく、この日から僕はじいさんの後をかばんを持って走り回ることになり、以後二十年以上も続くことになった。 じいさん、なにしろ年寄りだから朝は早い。六時にはさっぱりした顔で出社し、「さ、ツアーに出かけるぞ」とすぐに僕をお供に館内を一時間半ほどかけて巡回する。 ちなみにツアーはこの後、ランチタイム、夕方、帰宅前と日に最低四度は行われる。階段を使うから、おかげでジョギングだのジム通いだのまったく必要ない。 まず、朝食時間が始まったばかりのダイニングルームへ。入口からちらりと中を見る。射るようなひと目で、現場がちゃんと緊張感をもってやっているかどうかチェックする。ちょっとでもたるんでいる気配を察知すると、僕が伝令役になってマネージャーをそばに呼んで注意する。 ホールをゆっくり歩きながら、挨拶すると喜ぶたぐいのお客様にはにこやかに名乗って挨拶し、そうでないお客様には会釈程度で、決してじゃまはしない。スタッフたちには目顔で「君のこともちゃんと見ているよ」と温かさと同時にきびしさをもったまなざしをひとりひとりに向ける。 廊下で行き交うスタッフには、ひとりひとり名前を呼びかけながら、それぞれに一言、二言、相手が思わず顔を輝かせるような言葉をかける。これを「フレミング・マジック」と言うとは後で聞いたことだ。 地下のランドリー、機械室、営繕室、すべての部署に顔を出し、ツアーの最後にモーニングコーヒーを飲む場所と決めているのが、守衛室。そう、僕が最初に目をつけられたのもココにいた時だ。 コーヒーだけはまずいものは絶対に飲まないじいさんのために、僕は最初の仕事として、レストランからコーヒーを運んできた。守衛のエドモンもこの時だけはうまいコーヒーと焼きたてのペストリーが食べられるので、毎朝、楽しみにしている。 「若いもんにはわからんよなぁ」と、ちらりと僕を見ながら、二人で下ネタ満載の話を十五分ばかりするのだが、うぶな僕が顔を赤らめたりすると、いかにもうれしそうな顔をする。 これが、じいさん流の情報収集法だったのだと知ったのは、かなり後になってからのことだった。 ◇ ◇ ◇ 「どうだ、いいおんな、おるかね?」 じいさんが守衛室で話している声が聞こえる。もう引退しているというのに、今でも朝は必ずコーヒーを飲みにやってくる。しかし、守衛室から中には決して入らない。そして、コーヒーをレストランから運ぶのは今でも私の仕事だ。 「GMにそんなことさせちゃあ悪いね」 ちっともそんなこと思っていない顔で毎朝同じセリフを言う。 そう、僕はあれからじいさんのマンツーマン教育を受けて鍛えられ、引退時にGM就任を言い渡された。「LMがGMになっちゃったわね」きょうだいたちには笑われるけれど。 あの日、じいさんは何食わぬ顔して僕を呼ぶと、GM室のキーを僕に手渡しながら、こう言ったもんだ。 「This is it. That's it.」 じいさん、いつもより一言多かった。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.77より ■Just stay with me. 島リゾートのエグゼクティブシェフの物語 シェフ、総料理長。俺の名刺には確かに、そう書いてある。 「舞台は小さいかもしれませんが、ホテルのキッチンという一国一城の主ですよ」 あの日、ホテル専門のヘッドハンターが俺にささやいた言葉がよみがえる。そして、もったいぶったようにアタッシュケースから取り出したパンフレットの表紙の写真が、俺の首を縦にしか動かさなくした。 きれいな海に浮かぶ南の島。そこに一軒だけある高級リゾートホテル。そのことが示す意味がまったくわかっていなかったその時の俺を、俺は責められない。休みさえあれば海にもぐっている海好きの俺にとって、それは天国のような職場だ。しかも、給料はそれまでの職場の二倍で、シェフには特別に海上コテージの従業員宿舎付き。こんないい条件はない。俺は即、OKした。ワーオ! 前任者はここを最後にリタイアするという、俺のおやじくらいの年のおやっさん。引継の際、俺のレジュメ(履歴書)を見ながら、尋ねるというより、宣告するように言った。 「おまえ、街場のレストランでの経験はずいぶんあるようだが、ホテルのレストランの仕事はしたことがないんだな…。ま、世の中、なんでも経験だ。ここでは実にいろいろ学べるよ。人生のほとんどがね」 そう言ってにやりと笑ったおやっさんの目を俺は今になって思い出す。 肩のあたりにくっついてたチューインガムをはがして、他人の肩にべったり貼り付けてこっそりとほくそ笑む、そんな感じだ。チクショーッ。あの時に気づいていれば…。 ◇ ◇ ◇ 滑り出しは好調だった。従業員宿舎であてがわれた海上コテージは客用のものと同じで、広々としたワンルーム。初日の朝は、波の音で目が覚めた。さあ、今日から仕事だぜ。 おろしたての仕事着を着てキッチンに出ると、ルームサービスのオーダーテイカー嬢が俺にウィンクした。この島は美人の産地としても有名である。俺は頭の中の手帖の「幸せ欄」に一項目書き加えた。 「シェフ、ニーナと申します。お待ちしてましたわ。注文がひとつ入っています」 「ありがとう、ニーナ。一緒に仕事ができてうれしいよ」 「あたしもですわ」 指をからませるようにして渡されたメモには、「七ヶ月のベイビーの離乳食。。にんじんとブロッコリーのスープ煮(あまりつぶしすぎないで)。チキンミルクリゾット(味つけは濃すぎないように注意して!)」。 何度読んでみても、俺には理解できない。文字は読めるが、意味は外国語だ。 「なんだ、これ?」 「207号室からのご注文ですわ、シェフ」 「で、なんで俺に?」 「シェフのここでの初仕事ですわ」 俺は、頭の中で辞書を開き、シェフのページを繰り、そこに書かれた仕事内容を復唱してみる。しかし、どこにも「離乳食を作る」なんて、書いてないぜ。そこに電話のコール音。ニーナが「わかりました、急いで作ってもらいますわ」と答える。 「シェフ、ベイビーがお腹空いて泣いているから急いで欲しいって」 そんなこと言われても、俺は離乳食なんて作ったことはない。 あわてて、「ニーナ、君、子どもいる?」と聞くと、ニーナは妖艶なめつきで、「いやですわ、シェフったら、もう」。 「ほんの半ダースほど」ガキがいるというハウスキーパーのマリアの指導により、俺はともかく離乳食なるものを生まれて初めて作った。 「味付けはうんとうすくしてね。あとはなんでもやわらかくゆでて、つぶせばいいんだから、カンタン、カンタン」 そう言って背中をばんばん叩かれた。 出来上がった料理と呼ぶにはうんざりするようなしろものをトレイにのせ、「出来たぜ!」と叫ぶが、誰も来ない。 仕方なく、ニーナの所に行くと、電話中でウィンクはしてくれたけれど、送話口を手でおさえ、「悪いけど、誰も手が離せないの。お部屋まで持って行ってくださる?」 シェフが自ら離乳食をお届けする? 俺の辞書にはない。けれど、流れでしょうがない。俺はトレイをかかげて部屋まで運んだ。ハイスクールの頃、ダイナーでバイトした時のことを思い出した。 ドアの向こうからガキの泣き声が聞こえてくる。ノックすると、 「お腹空いてぐずってるのかと思ってたら、なんだか違うみたいなの。ちょっと外を散歩してみるから、上の子、見ていてくださらない?」 スレンダーだけれど胸だけは存在感たっぷり、そんな俺好みのタイプの美人ママにこう頼まれて、イヤと言えるか? ベイビーを抱いた美人ママがあごで指した方を見ると、こまっしゃくれた面したガキが、うさんくさそうに俺を見上げている。 「キャシー、お兄ちゃんと一緒に遊んでいてね」 お兄ちゃん…もしかして、俺のことか? 「アタシ、オトコはきらいなの」 俺はオンナは好きだけれど、ガキは嫌いだ。ちょうどよかったな。 「あ、そ。じゃあ、俺、行くわ」 きびすを返すそうとすると、後ろからむちっとした湿りけがある小さな手が俺の手を、正確に言うと右手の中指をつかんだ。俺の手は大きいからね。 「なんだよ」 「そこにいてくれてもいいよ」 って、おまえ、なあ…。 きっちり二十分、俺はお嬢様の隣に座って二十年ぶりくらいにディズニーのアニメを観た。ま、そういうこともあるだろ、長い人生には。 ◇ ◇ ◇ が、ここでは「そういうことばかり」だと気づくのに長くはかからなかった。 ニーナが電話の送話口を抑えながら、 「315号室のお客様がシェフに替わって欲しいって」 電話を替わる。 「今日のランチのおすすめはなんだい?」 声がやけに若い。とは思いつつ、ていねいにご説明申し上げる。 「じゃあ後で食べにいくよ。十二時にテラス席で一人頼んだよ」 電話の主はそう言って切った。 ランチタイム、料理を出し終えた後、お客の観察がてらレストランに出ていくと、テラス席には一人ガキがいるのみ。ガキはどうして暑くないんだろう、まあ、俺もガキの頃はそうだったけれど、なんて思いながら通り過ぎようとすると、 「アンタ、前のシェフよりハンバーグの焼き方はうまいけれど、オムレツはいまいちだね。生クリーム、入れてないだろう?」 電話の若すぎる声を思い出した。コイツだったのか…。けど、生クリームは図星だ。 「このルッコラ、ちょっと育ちすぎだね」 それもコイツの言うとおり。俺も朝、届いた野菜を見て気になっていた。 「あとさ、あのバゲットは焼きすぎ。オーブントースターを予熱で熱くしておいて、中に入れたらすぐにスイッチを切って温めてパリッとさせる程度でちょうどいいんだよ」 うなづくしかない。 「ちょっと、そこ座んない? 料理についていろいろ教えてあげるよ」 「ママやパパはどうしたんだい?」 俺はかろうじて大人の威厳を取り戻した。 「朝から釣りに出かけていないよ。僕はキッズルームってきらいでね。退屈だ」 俺は退屈なんかしていないし、これから休憩時間だ。お坊っちゃまのお相手なんかしてられない。逃げだそうとすると、誰かが上着の裾をしっかりつかんでいる。 「どうせさぁ、ランチタイム終わって暇なんだろ? 話し相手になってやるよ」 強がったガキの寂しそうな目を見ちまって断れる奴がいたら、そいつは人間ではない。 それにしても、とんでもないところに来ちまったぜ。保育士までやんのかよ? ◇ ◇ ◇ すっかり肌も日焼けし、シェフとして地元の食材を使った料理なんかを研究し始めた頃、俺はこういうホテルのシェフの仕事にも慣れた。 わかったことは、「食」に関する限り何でも屋だってこと。ミシュランの評価に価するような料理から離乳食、風邪をひいたお客用のお粥に、アレルギー持ちのチャイルド・ミールまで、なんでもござれだ。 そして、料理を作ることだけが俺の仕事ではないということも。 「407号室のお客様がテラスでお茶とブルーベリーパンケーキをご注文よ」 今は言われなくても自分でトレイを運び、ばあさんのおしゃべりにつきあう。 「Just stay with me. そこにいてくださるだけでいいのよ」 俺もすっかり大人になったものだ。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.76より ■夜会巻きのホテルウーマンの正体。 強気なトレーニーガールの物語 「アタシがGMになったら、きっとこう変えるわ!」 夜会巻きにするつもりが長さが足りなく、ピョンピョンと飛び出た後れ毛を片手で押さえながらジュリーは言う。 口調はえらそうで、ツンと天井を向いた鼻先も勇ましいことこのうえないが、黒のマオカラーの制服の胸には「トレーニー(研修生)」のバッジ。 せいいっぱい背伸びしても、身長は160センチにも足りないので、計画的に高身長の者が配属されているベルマンの僕たちと話す時は、自然とあごをつきだしてぐいと見上げ、僕らはといえば見下ろすることになる。けれど、彼女の鼻息の荒さは変わらない。とにかく、タフな女なのだ。 ◇ ◇ ◇ 彼女が初めてやって来た日のことは、今でもよく覚えている。まるで女優のように真っ黒のサングラスをかけ、大きなつばがついた黒い帽子をかぶり、十センチはありそうなハイヒールをはき、しゃなりとタクシーから降りたまではいいが、タクシー代の支払いも荷物も忘れ、すたすたとドアマンが待つ正面玄関に向かい、「ネクタイが曲がってるわよ」と言い放ったのである。 ドアマンは、はて、ホテルの本部のお偉いさんか、はたまた奥方だろうか…と考えながら、あわててネクタイを直し、愛想笑いをしてドアを開けたところ、タクシーの運転手があわてて駆けこんできた。 「今のお客さん、支払いまだなんだけどね。まあ、たいした金額じゃないけど」 追いかけて行って知らせると、 「あら、失礼。すっかり忘れていたわ」 えらく落ち着いた物腰で、僕にも「お手間かけたわね」なんて言いながら、きれいな歯並びでにこっと笑い、チップをさりげなく握らせたりするので、よっぽどホテル慣れしたどこかのお嬢様かなんかだろうと思った。 それから三日間、彼女は暇さえあると、というより、食事の時間以外はロビーのソファにずっと陣取り、レセプションやエントランス、ロビーラウンジに鋭い視線を飛ばしながら観察していた。 フロアにゴミなんぞ落ちていようものなら、いつ誰が気づいて拾うか、それはもう虎視眈々と見つめている。ちょっとでもお客とスタッフがもめようものなら、さりげなく(本人はそのつもりだが、我々からみると、あからさま)近くに寄って行って、耳をそばだてる。 「彼女って、もしかしてホテルの評価本かなんか書いている人?」 「いや、チェーン本社から派遣された覆面調査員では?」 ついにはそんな噂も我々スタッフの間ではささやかれたものだった。 ◇ ◇ ◇ そして、四日目の朝。モーニングブリーフィングに、髪の毛を夜会巻きに結い、ホテルの制服を着て現れたのは、彼女だった。 「今日からトレーニーとして、君たちと一緒に働くジュリーだ。最初は慣れないので、いろいろ助けてやってくれ」 チーフの紹介の後、彼女が挨拶のため前に進み出た。のっけから彼女は言った。 「私は、GMになるための、第一歩として、今、ここにいます」 その瞬間、静まりかえった部屋に、僕たちスタッフ全員の目の瞳孔がきゅーんと縮む音が響いた、と思う。 「今日まで三日間、私は一ゲストとしてこのホテルに滞在してみて、いろいろ問題点も発見しました。皆さん、私と一緒にこのホテルをより良いホテルにしましょう」 三秒、四秒、五秒、いや、十秒くらい沈黙が続いたと思う。チーフの喉仏が唾を飲みこむために動いたのが、その場が静止画面ではないことを証明するものだった。 パン、パン、パンという拍手の音に振りかえると、ドアのところにGM(総支配人)のフォードさんが立っていた。 「そうだ、そのとおり。私もぜひ彼女の意見を聞いてみたいね。みんなでがんばって良いホテルにしていこう」 我々はといえば、あわてて息をするのがやっとで、彼女だけが、GMに向かって大きくうなづいていた。実にえらそうに…。 ゲストリレーションズ・デスクに見習いとして配属された彼女の席は、ベルデスクの隣。だから、自然と彼女のことは目に入る。 電話が鳴ると、まったく臆せずに誰よりも早く取る。ふつう、新人は何がこわいって、電話ほどこわいものはないはずなんだけれど。 ちょっとでも迷った様子のゲストを見つけると、デスクから歩み出ていって、にっこりと微笑みながら、「何かお困りですか? お手伝いいたしましょうか?」。 「すげぇ、心臓だな」 「ほら、だって、自称GM候補生だから」 「あのそっくりがえり具合はさ、もうGMでも充分いけてるよ」 僕たちは、そんな風にこっそり言い合っては笑っていた。 彼女ほどの気概もないけれど、さりとて人生のすべてをあきらめたわけでもなし。ほどほどの努力をしながら、そこそこの出世を望んで毎日を過ごしていた僕にとって、彼女の出現は、一陣のつむじ風のようなものだった。 がんばって、ベルキャプテンの上を目指してみてもいいかな、なんて…。 ふつうだったら、彼女のような存在は、目障りで鼻つまみ者になっただろう。けれど、あんな風に堂々と、信念に満ち、まっすぐに我が道を歩んでいる姿を見せつけられると、どんなにひねこびた人間でもつい黙る迫力がある…。 それと、忘れてはいけないのは、彼女がきちんと役に立つ仕事をしていたということだ。 どうやら、事前にこの地域の事情はよく調べていたようで、ゲストの質問にもよどみなく答えていたし、他で手が足りないのを見てとると、言われずともさっと手伝った。 ホテル内の人間関係もちゃんと調査したようで、それぞれを熟知した対応をしているので、みんなに気に入られている。 「それにしても、いったいどんな育ちの子なんだろうねぇ」 そう言われてみれば、彼女の素性を聞いたことがある者は誰もいなかった。 「まあ、こんな高いホテルに泊まる金もあるようだし、あの自信満々具合からいうと、どこかの金持ちが家業を継がせるつもりで送りこんでいるんじゃないのか」 研修生でもどこぞのお坊ちゃんやお嬢様のような場合は、すぐに噂がもれてくるのがふつうなのだが、今回はそんなことも聞かない。チーフに尋ねてみても、提携のホテルスクールから通常枠で送られてきたのだという。 地下の従業員食堂でたまに一緒になることがあっても、彼女から仕事についての質問責めで、それに答えるのでせいいっぱい。こちらから彼女について何か質問するいとまなどもらえない。 とにかく、我々スタッフの間では「謎の女・ジュリー」と密かにささやかれながらも、彼女のド迫力に圧倒される日々だった。 ◇ ◇ ◇ そんな彼女の研修もそろそろ終わりに近づいたある日のこと。着慣れないスーツ姿の老人が、やはりよそ行き服を無理矢理着せられたらしい男の子を連れてやってきた。 はじめはけげんそうな顔していたドアマンが、「ああ…」という感じで急に親しげに挨拶している。いったい誰だろう? 近づいてくる老人は目が合うと、ニヤッと笑ってウィンクした。スーツを着古したフラノのシャツに取り替え、髪の毛を二、三回指でかきまわせば、そうだ、通りをはさんで向かいのバールのオヤジ、ロイだ。 僕たちホテルマンがエスプレッソ一杯でねばっては油を売り、愚痴をこぼして肩もみをしてもらう憩いの場だ。この店がなかったら、絶対に今日まで仕事は続かなかったと思うのは僕だけではないはずだ。 連れの男の子は、こんな窮屈な格好、やってらんないよという感じで、前髪を両手でオールバックにかきあげ、ツンと天井を向いた鼻先にブリッジをつけた歯をむき出しにして、イーダをしてみせた。 その瞬間、アッと思ったのは僕だけではなかったようだ。古株のスタッフたちが素早く目を向けたのは、ジュリー。 そう、夜会巻きもどきのヘアスタイルを昔のおかっぱ頭にして、歯にブリッジをつければ、いつも店の奥で宿題をやりながら手伝っていたロイの孫娘ではないか…。 「ジュリーはちゃんとやってるかね?」 どうりで、このホテルの事情を裏の裏までよく知っているはずだ…。 「ねえ、ホテルってところで、一番エライのは誰?」 「ん? それはもちろんGMだよ」 「そう。じゃあ、アタシ、ジーエムってのになるわ」 昔、こまっしゃくれたガキ娘にそう教えたのは、この僕だぜ。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.75より ■密室の失踪ミステリー…。 少年とアシスタント・マネージャーの物語 「まあ、なんてカワイイのかしら! ほら、マーク、ごらんなさいな。あっちよ、あっち。ねぇってば、マーク!」 ママがあんまりしつこく強いるので、しかたなく、○・三秒ほど横目でチラッと見た。それでも僕の網膜には現実のリアルなゾウの像(別にシャレてるわけじゃない)がくっきりと残った。おかげで動物図鑑や絵本の世界で大切に育ててきた、美しいゾウのイメージは無惨にもぶっとんでしまった。 そして、パンダ。いったいコイツのどこを見て、世の中の人々は「カワイイ!」だの「なんて愛くるしいのかしら」なんて言葉が出てくるんだ? わざと観客に背を向けて寝転がり、ときおり寝返りを打ちがてら、こっちをふてぶてしい面構えでちらりと見やる。愛嬌のかけらも何もありはしない。 「触れあい広場」にいた山羊もひどかった。「まあ、かわいいヤギさんねぇ」なんていうしろものではないぜ、アレは。いかにも性格が悪そうな目つきでじろりと見ると、ママが手にしていた餌をいきなりもぎとった。 どうして大人は、子どもってみんな動物が大好きで、動物園に行くと喜ぶだなんて思っているんだろうか? 大きな誤解だよ。 「あそこ見て! 木の陰よ。ライオンさんがいるわよっ!」 サファリパークの中を走る汽車に乗せられた僕は、興奮して立ち上がって叫ぶママが指し示す方向に目をやった。 奴は汽車の中の人間たちを観察していた。 ごくろうさん、という目つきで。 奴と目が合った。 お互いに一瞬のうちにわかりあった。 「まったく、うんざりだよなぁ」 奴がにやりと笑い、僕も笑い返した。 僕が笑ったのを目ざとく見たママが、勝ち誇ったように言った。 「ほらね、マーク。連れて来てあげて、よかったでしょう?」 ◇ ◇ ◇ その子をロビーで見かけたとき、僕は二十年前の僕を見たような気がした。 テーマパークのみやげ袋を手に下げ、すっかり華やいじゃってる大人たちの横で、ぼんやりとしているようでいながら醒めた目で大人を観察している半ズボンの少年。小学校に上がったばかりだろうか。 「こんなところでお会いするなんてホント、奇遇ですわ。もしよろしかったら、お食事の後で、クラブラウンジでナイトキャップでもご一緒いたしません?」 「あの…今回は、慣れない親戚の者が手配をしたもので、その、別のフロアなんですの。いつもは必ずクラブフロアに泊まるんですけれどね」 この気の強そうなオバハン、いかにも悔しそうな口調だ。 「あーら、失礼。お宅、いつもクラブフロアだと伺っていたもので…。ごめんあそばせ。じゃあ、どこか別のところでもよろしくってよ。どちらがよろしいかしら? ご都合のいいところ、おっしゃって」 勝者はいつも余裕にあふれているものだ。 「お食事はどちらでされるご予定?」 反撃を予感させる物言いだったが、問われた方は気づかないようすだ。 「一階のビュッフェをやっているっていうレストランですのよ」 「ああ、コーヒーショップね」 敵は実にあっさり片づけた。 そして、今度は勝利をじっくりと味わうかのように、ことさらおっとりした口調で答えた。 「宅はね、最上階にあるメインダイニングで、フレンチのア・ラ・キャルトをいただく予定ですの。ですから、お食事が終わるお時間が、ちょっと、読めなくって」 アラカルトの発音を「ア・ラ・キャルト」とフランス語風にしたのはちょっとやりすぎだなと思ったが、オバハン、それまでの鬱憤が一気に噴出したのだろう。 「まあ、それは残念ですわ。明日の朝食もウチはクラブラウンジでいただく予定なんで、今回はご一緒できる機会、ありませんわね。残念ですけれど」 しつこくクラブラウンジを繰り返す方も大人気ないが、世の中、大人だからといって、大人というわけではない。 「とっても、残念ですけれど、明日の朝食はね、ブレックファスト・クルーズを予約してありますの。朝からシャンパンだなんて、まあ、ちょっとアレですけれどね、ホホホ。たまにはね、『無料でない』朝食を楽しみましょうって。では、ごめんあそばせ」 最後にイヤミのダメ押し、返し縫いをし、さっぱり気分よく立ち去るオバハンに、もうひとりのオバハンが悔し涙を飲んだ…。いや、訂正。飲んではいない。全身から湯気にして出していた。 そうした大人たちのやりとりを聞きながら、マーブル模様のフロアを使って駒進めゲームをして遊んでいた半ズボンが、心の中でうんざりしているのが僕にはよくわかった。 「行くわよっ! そんなところに座って何してるのっ。まったく、もう!」 八つ当たりするママに手を引かれ、僕が座るアシスタント・マネージャー・デスクの前をいかにも純真そうな子どもの顔をして通り過ぎる半ズボン。澄んだつぶらな瞳に、大人の世界のことなんて何もわからないといったあどけない表情。完璧な演技だ。 その瞬間、僕たちの視線がからみあった。 いよっ、おつかれさま。 へ、オジサン、わかるの? 僕も昔、子どもだったからね。 まったくいやになっちゃうよ。 おとなもな、けっこう大変なんだよ。 そんな目顔のやりとりの後、半ズボンは口の端で笑い、後ろ手に手を振った。 ◇ ◇ ◇ たいていミステリーでは事件は突然起きるが、ホテルでも同じだ。 「ママとパパがいなくなった」 半ズボン、いや、ライオン柄のパジャマに着替えた奴、レオが僕の前に現れたのは、夜もかなり更けた頃だった。 さすがに青ざめた顔をしている。さっそく、ベルボーイをひとり同行させて一緒に部屋に行き、室内をクローゼット、カーテンの陰にいたるまでくまなく探すが、どこにもいない。レオはごていねいにベッドの下までもぐってのぞきこんでいたが、奴の両親にはそんな癖があるのだろうか? 管理センターで防犯ビデオを再生してみるが、九時半頃、食事から部屋に三人で戻って来て以来、両親が部屋を出た形跡は一切ない。まさに、密室で起きた事件である…。 さて、ワトソン君、君ならどうするかね? レオと奥のオフィスに行き、ホットチョコレートを頼んでやろうとしたら、「あんまり甘くしないでね。ママのはいつも甘すぎなんだ」。 ハイ、ハイ。子どもだからって甘いもの好きとは限らないからね。 フロアプランを出して見る。レオが両親と泊まっているのは、クラブフロアのスイートルーム。リビングルームとベッドルームに分かれた続き部屋だが、リビングにエクストラベッドを入れてある。レオはここで一人で寝ていた。夜中に目が覚め、トイレに行こうと思って両親の部屋のドアをノックしたけれど(「いちおうエチケットだからね」と奴は言った)、返事がないので寝ているんだろうと思ってドアを開けたところ、ベッドはもぬけの殻だった、というわけだ。 フロアプランをじっとにらんでいるうちに、僕の灰色の脳細胞が高速で廻り始めた。 「たぶん…そうだ。うん、そうに違いない! おい、行くぞ!」 ひとり深くうなづく僕をレオがうさんくさそうな目つきで見上げた。そもそも、大人ってものを信じていないんだな、コイツ。 ◇ ◇ ◇ 「お恥ずかしいですわ」 「いや、まったく」 無事発見された後、詫びる両親にはさまれて座ったレオの顔を見ると、また何も知らない無邪気な子どもの顔に戻っている。 恥ずかしいのはこっちだよ、まったく。 ライオン柄のパジャマのほつれをひっぱる目はそう言っている。 密室の謎を解く鍵は、コネクティングルーム。 両親が寝ていたベッドルームは隣室と仕切壁にあるドアでつながっているのだが、通常は双方行き来できないよう鍵を閉めてある。 その夜は空室だった隣室側の鍵がたまたま開いていた。パパとママは二人で「ここ、何かしら?」とドアを開けてみたところ、自分たちの部屋よりもずっと豪華な部屋。で、つい二人でいい気分でくつろいでいた、というのが事件の真相。 ドアチャイムを鳴らした時のパパとママのあわてぶりったら、もう。賢明なレオは目をそらしていたけれど。 「ま、許してやれよな」 奴の頭に手を置いて言うと、醒めた目で、奴は言った。 「大人のやることだから」 子どもは何でも知っている。大人になるとみんな忘れてしまうけれど。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.74より ■キャラメルママは心を繕う人 ホテル専属お針子さんの物語 「ま、長い人生にはね、そんなことくらいあるものよ、ホホホ」 キャラメル・ママにほがらかにそう言われ、 「こういうときはね、甘いものがいちばんよ」 とエプロンのポケットから魔法のように取り出されるキャラメルをなめていると、 「ん、そうだよな。もうそんなこと気にするの、やめよっと」 となるのだから、実に不思議である。 このコンデンスミルクとバターがたっぷり入ったお手製のキャラメルはスタッフの間でも大人気で、これ欲しさにママのそばをうろちょろする輩もいるほどだ。 ◇ ◇ ◇ キャラメル・ママ。誰もがそう呼んでいる。 彼女の正式な職名は、ハウスキーピング部臨時職員。もう三十年以上も「臨時」で毎日働いている、ホテル専属のお針子さんだ。 ランドリーに回る前の洋服をチェックして、ボタンが取れたりほつれたところを繕うのが主な仕事だけれど、手が空けばランドリーボックスに敷くマットやアメニティーを入れる小さなポーチをはぎれで作ったりしてはお客様にも喜ばれている。 それと…これはみんながやってもらってることだから話しちゃうと、私服のボタン付けなんかも、頼めば快くやってくれる。俺たちシングルの男性スタッフにとっては実にありがたい存在だ。 しかし、彼女が繕っているのはシャツやズボンばかりではない。 彼女は俺たちスタッフにとって、カウンセラーであり、セラピストであり、涙をぬぐったり頭をなでてくれるママでもある。 彼女はどんな時でもいやな顔ひとつ見せることなく、俺たちの話をよく聞いてくれる、聞き上手だ。テーブルの上で両手を組み合わせ、穏やかな微笑みを浮かべながら、 「そうなの、それはたいへんだったわね」 「それはつらいわよ、あたりまえよ」 「よくやったわね、えらいわ」 真心のこもった相槌を打ちながら、話し手の気がすむまでしゃべらせてくれるのだ。 そして、最後は、コレだ。 「ま、長い人生にはね、そんなことくらいあるものよ、ホホホ」 ともかく、彼女のおかげですっきりとした気分で職場復帰して働くことができるのだ。 俺がここで十年間無事に勤めあげることができたのも、ひとえにママのおかげといっても過言ではない。 ハイスクール出たてで一番下っ端のバスボーイとして働きはじめた頃、失敗ばかりして先輩たちに怒鳴られる毎日だった。 ある日、もう今日こそ辞めようと思い、俺は暗い目をして地下の廊下をとぼとぼ歩いていた。すると、ふいにママに明るく声をかけられた。 「あら、あなた、ボタンが取れてるわよ。つけてあげるからいらっしゃい」 ママにうながされて部屋に入ると、そこはまるで我が家のキッチンのように、温かで、居心地のいい空気に満ちていた。 ポットの温かいお茶をマグカップに注ぐと、ママはエプロンのポケットからセロファンにつつんだキャラメルを出して、僕の手に握らせた。 「あなた、キャラメル、お好きかしら? こういう時は甘いものが一番よ」 その後、何度も聞くことになったおなじみのセリフと共に…。 その時、何をどうしゃべったのかは覚えていない。けれど、いつのまにか、ぬるめのミルクティーがすっと喉を通っていくように、仕事がつらくて辞めたいと思っていることから、ガキの頃、悪さをしておやじにしかられたことまで、ポケットをすっかり裏返すように、俺の人生を全部しゃべっていた。 そして、ママの部屋を出るときには、すっかり元気になっていた。 その後も、何かもんもんとしたり、つらいことがある度に、俺は地下にあるママの部屋に降りて行き、彼女に胸の内を話して聞いてもらうことによって、破れた心を繕ってもらった。そしてキャラメルをなめながら、二段上がりで元気に階段を駆け上がって戻ってきたのだった。 前任のGM(総支配人)のダニエルも、ママと彼女のキャラメルをこよなく愛し、しばしば地下へ足を運んだ一人だった。彼いわく、 「キャラメル・ママはGMの私よりも誰よりも、このホテルで一番仕事をしている」。 ところが、今朝、俺たちスタッフにとって、リーマンショックよりも悪いニュースが館内を猛スピードで駆け巡った。 彼女がリストラでいなくなるのだという。誰もが青ざめ、そして、怒った…。 ◇ ◇ ◇ いなくなる、という言い方は正しくない。いなくさせられようとしているのである。 犯人は、新任GMのサックス。コーネル・マフィアの一族で(コーネル大学のホテルスクール卒ってことだ)、経営不振のホテルを次々に建て直したという輝ける実績のマントをたなびかせながら、張り切って赴任してきた奴の口ぐせは、 「数字だよ、数字。数字がすべてだ!」。 着任するとすぐに奴が着手したのは、リストラ候補者のリスト作成だった。 なんと、そこにママの名前があったというのだ。 Impossible! ありえないぜ! この情報はまたたく間にみんなに知れるところとなった。 「たかがボタン付けだけのために人ひとり雇ってるだなんて、ばかげている! 今どき、実にナンセンス!」 奴はそう言ってせせら笑ったそうだ…。 ばかげていて、ナンセンスなのは、アンタの方だよ。俺たちスタッフが一人残らず、みんなそう思ったのはまちがいない。 毎朝、六時に出勤してきては、途中、ドライブスルーのマックで買ってきたエッグマックマフィンをコーヒーで流しこみながら、黙々とPCに向かうサックスが、まじめで働き者なのは認める。次々と繰り出すリストラ案の印刷のため、奴のプリンターは過熱状態でひぃーひぃー言っているらしい。 奴いわく、パンは館内のベーカリーで焼くよりも、外のパン工場に外注した方が安く上がる。よって、ベーカリー部門は廃止することにした。 「ホテルのパンってもんは、焼きたてのうまいものを出さないと…」という現場の声は、「レンジで温めれば誰もわからん」の一言でけりをつけられた。 確かに一理ある。アンタにはどっちでも同じ味にちがいない。マックのエッグマックマフィンも、ウチのシェフが毎朝ていねいに作っているオランデーズソースをかけたエッグベネディクトも「ぜんぜん変わらないね」とぬかした味オンチのアンタだから。 まずいパンはそういうパンでもいいと思うようなレベルの客しか呼ばないって、前GMのダニエルはよく言っていたものだ。 ま、その結果、アンタの「数字」がどうなるのか、俺は楽しみだけれどね。 しかし、ママのことだけは、どうしても、絶対に、納得できなかった。 その夜遅く、地下のキャンティーンに集まったのは、GM以外すべての従業員だった。ふだんは仲が悪い調理場の奴らと俺らホールスタッフも、みんな一緒のテーブルにつき、額を寄せ合い、知恵を絞りあった。 俺は、人間というのは、利害が一致すると、ふだん仲が悪い者どうしでも手を結ぶものだということを学んだ。 そして、いつも「頭がいいからって威張りやがって」と毛嫌いしていた大学出の連中が、俺たちからてんでバラバラに出てくるアイデアを整理し、戦術を立て、プロジェクトを手際よくすすめていく手腕に正直言って感心した。俺は現場のことはわかるけれど、こういうのは苦手だから。 みんながママを守るという目的のために、一致団結していた。 ◇ ◇ ◇ 「あなた、キャラメル、お好きかしら? こういう時は甘いものが一番よ」 GMのサックスが額に青筋立てて憤然と乗りこんで行った時、ママはいつもと変わらぬ調子でこう言ったそうだ。 あの翌日、俺たちはサックスに申し入れた。 会社がそんなに困っているとは知らず、従業員一同、大変申し訳なく思っている。ついてはGMとママの給料分を我々スタッフ全員で負担したい、と。 「正確な金額は存じあげませんが、我々が察するには…」と奴の給料とママの給料の金額を記した。奴の給料は、ママの五分の一。 まあ、つまるところ、ママのクビを撤回しないと、アンタの無能さを本部に言いつけるよ、という従業員全員からの脅迫だ。 しばらくしてママの部屋から出てきたサックスは、別人のような晴れやかな顔で、キャラメルをなめながら、階段を二段上りして駆け上がって行ったという。 報告が届くと、俺たちはキャンティーンで甘い祝杯をあげた。つまみはママのキャラメルだから。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.73より ■我が輩は、何でアル? 新入りバーテンダーと名前がない猫の物語 「なんもせんでいい。するな。黙ってそこに立ってろ」 ボーイ(新入りの奴の名前だ)が初出勤の日、カウンターの向こうからオヤジさんはそう言って隅を指さした。 オヤジさんがひとり忙しく働くなか、ボーイは言われたとおり、何も手伝おうとせず、背筋を伸ばして黙って立っていた。 ◇ ◇ ◇ 「あのな、ボーイって奴、ほんっとうに、何もしなかったんだぜ。ひとっ言もしゃべらないしサ」 俺がそう言うと、マチルダはふくよかな体をセクシーに揺すりながら、 「ふーん。じゃあ、見こみあるかもね、その坊や」 まるまるっちくキュートな鼻を鳴らした。そして、足首がキュッとしまった足をちょっと上げ、ブルーの流し目で俺を誘った。思わずぐっときた俺は喉を鳴らした。 マチルダはこのホテルのマスコット的存在だ。誰もが彼女に会うと笑顔で呼びかけ、「カワイイ!」とやたらと体にさわりたがるんで、俺は頭にくる。勝手にさわるな! と必死に叫んでいるのだが、通じない。 彼女はときどきサテンのリボンなんか首に巻いちゃって、豪華なパーティー会場にも呼ばれ、特上のササミなんかもらったりする。 「やっぱり、いいものは味が違うわねぇ。もう、普通のは食べられないわ」なんて、彼女は言ってたけれど、俺は腹がいっぱいになれば何でもいい。 そうだ、なんと、彼女のことを書いた本まであるんだぜ。もっとも、その本の表紙の絵を見て、「あたし、こんなに鼻が低くないわよ!」と、彼女、いたく怒っていたけれど。 俺の目にはくらくらするようなナイスバディの彼女そっくりに見えるけれど。ま、女心はむずかしいもんだから。 ん、俺? 彼女からときどきお呼びがかかって、そのぉ、一夜を共にすることもあるっていうやつ…。名前は、まだない。 っつーか、みんな適当に「おい」とか「チビ」とか呼ぶ。マチルダはときどき機嫌がいいと、「アンタ」と甘い声で呼ぶけどな。 まだ豆粒みたいな子どもの頃、このホテルの従業員入口で震えていたところをハウスキーパーのおばさんに拾われ、地下室の一角を寝城に、このホテルに住み着くようになった。ちゃんと予防注射も受けてるし、お風呂にも入ってるよ。ニャンとね。 で、バーのカウンター裏にときどき忍び込んでは、オヤジさんにチキンサラダのおこぼれをもらっているってわけだ。 自宅のアドレスはいちおうホテルだが、俺とマチルダの身分の差は、大きい。 ◇ ◇ ◇ ボーイの何もしないで突っ立てるってのは、翌日も、一週間後も続いた。どんなに店が混んでいようと、目が回るような忙しさであろうとも、オヤジさんもボーイには何も頼まなかったし、ボーイも黙って何もせずに立ち続けた。 そして、マチルダがボーイについて言った「見こみある」という言葉の意味がわかったのは、三ヶ月目の夜のことだった。 その夜、オヤジさんは、ボーイにだけわかる視線でカウンターの端っこに座った客に目をやり、「ボーイ」と小さく呼んだ。 奴は、オヤジさんが声を発するのと同時に動いた。カウンター下に置いてあるスペアの灰皿に手をやり、オヤジさんがいつもするようにさっと新しい灰皿を使用中のものの上に重ね、とり替えた。 しばらくして、客からカクテルのオーダーを受けたオヤジさんが「ボーイ」と声をかけると、奴はさっとそのカクテルに必要な酒や道具を、オヤジさんがいつも並べる順にそろえた。 それからは、「ボーイ」とオヤジさんが呼ぶまでもなく、奴はまるでオヤジさんの影のように、手足のように、動いた。 俺はその夜、マチルダを腹枕しながら、寝物語に奴のことを話した。 「それまでサ、来る日も来る日も黙って突っ立ってるだけで、何も教わらなかったのに、アイツはちゃんと仕事したんだよ。どっかで習ってきたのかな?」 「あの子はちゃんと見てたのよ」 マチルダはちっとも驚かなかった。 「でもさ、なんで何も説明しないのに、オヤジさんが頼みたかったことがすぐにわかったのかな?」 彼女は、ゆっくりと首を回すと俺の目をのぞきこんだ。大きなブルーの瞳に見つめられ、俺は思わず唾を飲み込んだ。 「まったく…。おバカさんね、アンタって。でも、アンタのそういうところ、好きよ」 彼女が俺のことを「好きよ」と言ってくれたので、俺は天にも昇る気持ちでうれしくなり、ゴロニャンとじゃれついたのだが、彼女はちっともその気でなかったらしく、いやそうに邪険にされた。まったく、女心はどうもわからんものだ。 そして、一年後。ボーイは初めて注文のレモンスカッシュを作らせてもらった。うれしそうだったな、奴。それ以来、こうした混ぜものは奴の担当になった。 俺もまた、マチルダとの逢瀬を一年続けたおかげで、ちっとは成長した(と思う)。 今、俺はわかる。ボーイが人知れず重ねていることの意味を。 奴は、暇さえあれば、豆を入れたシェーカーを振って練習し、みんなが寝静まった夜、地下の廊下の壁にひとり寄りかかってカクテルブックを読み、眠い目をこすりながら、辞書を片手に外国語の勉強をしていることを。 そんな奴のために、俺も何かできることをしてやりたいと、冷えこみがきびしい夜には、膝の上にまるまって暖房がわりをしてやっている(つもりだ)。 そして、オヤジさんがさりげなく奴に見えるようにわざと仕事をしていることも、俺は知っている。 いつしか、俺にチキンサラダをくれるのも奴の役目になった。俺の分だけ、苦手なペッパーを入れないで、味付けも薄めにして取り分けておいておいてくれるので、俺はうれしい。俺が食べるようすをじっと見て、俺の好みがわかったらしい。 マチルダが言うには、「あの子は天性のバーテンダーで、生まれつきのホテルマンよ」。 俺もいつの日か、奴がシェーカーを振る日が来たら、カウンターに座って奴が作るマティーニを飲んでみたいものだ。 さっと一杯で切り上げて、長居はしないつもりだぜ。へへんだ、門前の小僧習わぬ経を覚えるって、知ってるかい? 「おいっ、見習い野郎、ちゃんと仕事やってるか?」 アシスタントマネージャーのチャーリーが開店前の準備中のバーにぶらりと入ってきた。弱い者いじめをしてはストレス解消するという、しょうもない奴だ。俺の姿をみつけると、悪態ついて蹴飛ばしては追い出そうとする。DV野郎だよ、まったく。 そういう時、ボーイはいつもチャーリーの好きな煙草をさっと一箱差し出し、黙らせる。だから、煙草が欲しくなるとやってくる。ほんとうにイヤな奴だ。 チャーリーが立ち去ると、ボーイは黙って煙草の代金を自分のポケットマネーからレジに入れる。 俺がボーイには決して頭が上がらないってのは、こういう訳さ。 そんな話をマチルダにすると、彼女はすっと目を細め、宙を見て言った。 「いい男だねぇ」 いい男…。たとえ相手がボーイでもそんな風に言われると、嫉妬心がむらむらとわいてくるから不思議なものだ。 「一度チャーリーのスネのあたりに噛みついてやろうかしら。アイツは上にはヘラヘラ、下には威張るイヤな奴だから。アンタも黙ってないで、一発やってやったらどう?」 なんてマチルダは乱暴なことを言う。でも、そんな風に怒ったときの彼女は瞳がきらきら輝いてとてもきれいだ。 ◇ ◇ ◇ ある夜、俺は「コト」が終わった後で、マチルダにそっとたずねてみた。 「なんで俺みたいな男なんかと…」 マチルダは、俺の顔をまじまじと見ると、ふふんと鼻先で笑い、ちょっと遠くを眺めるような目で夜空を見上げた。 「女ってね、良い血統書を持ってるとか、毛並みがいいとか、頭がいいとか、そんなんで男に惚れるんじゃないのよ」 じゃあ、何に惚れてるんだよ? 彼女は突然、俺の髭を引っ張った。痛っっっ! 「アンタの場合? そうねぇ…強いていえば、腹心地の良さかな」 彼女の無言の命令に従い、俺はいつものように態勢を整えた。あれ? 腹を出すのは「降伏」の印だっけ…。ニャン、ニャン。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.72より ■美女のブルー・クリスマス 航空便オフィス・クラークの物語 「あなたって、いい人ね」 たまにはそう言われてみたい、と思わない人がいるだろうか。それも、できれば異性、できれば若い方がうれしいし、できれば美形であると、もっともっとうれしい。それが人間の自然な感情というものではなかろうか。 違うかね、ワトソン君? ◇ ◇ ◇ 「トイレはどこかね?」 かなり差し迫っているのに探し場所がみつからないのが許せないのか、あるいはそんな状態になるまで追い込まれている我が身がの情けなさが許せないのか、中年の男はドアを乱暴に開けて飛びこんでくるなりムッとした口調で尋ねた。 僕はひと呼吸してから顔を上げ(一秒経過)、にっこりとほほ笑みかけ(二秒経過)、不自然に見えない程度にゆっくりとした動作で椅子をくるりとまわし(三秒経過)、一語、一語、頭のなかで読点を打ちながら、ていねいに(ゆっくりと、ともいう)答えた。 「そこを出て、左に曲がって、しばらく行くと、右手の壁に、ドアがいくつか、並んでいます。そこの、二つ目のドアですよ」 男は礼も言わず、すっとんで出ていった。 おそらく会社では上から三番手あたりの位置におり、本人は密かにもっと上を狙っているのだが、まわりは誰もそうは思っていない、けれど本人が十分にその気なのはみんなよく知っているから、適当にヨイッショされて、椅子にふんぞりかえって威張り散らしているのが彼の日常生活だろう…。カンファレンスなどが入っていない今日のような日は、そんなことを考えるひまがある。 フロックコートを着た老人が、ドアを静かにノックした。太い眉の下からのぞく鋭い眼の光は、社会的にもかなり高い地位にいるであろうことを伺わせる。別に威張らなくても、そこにいるだけであたりを払う威厳を感じさせるというのは、こういう人のことをいう。さっきのオヤジに教えてやりたい。 僕の目をまっすぐに見ると、 「お仕事中、お邪魔をして申し訳ないが、最上階のレストランへ行くエレベーターはどれか、教えていただけますかな?」 「入口を出られて右に曲がった突き当たりにございます」 僕はこういう相手の時はていねいに答えることにしている。エライ人だからではない。人にモノを尋ねるときの礼儀というものを、きちんと心得ているからだ。 「ありがとう」 老人はしっかりとした声で礼を言って去って行った。 しばらくすると、聞き慣れたマノロ・ブラニクの細いハイヒールの音がカツカツと廊下に響き渡った。すぐに、昼間からディオールのイブニングドレスを着た女性が赤毛の髪を振り乱して飛びこんできた。 「ねえ、困ったことが起きたわ。私の部屋のエアコンの調子が変なのよ。すぐに直してちょうだい!」 彼女はホテルにかんづめ中の売れっ子シナリオライターなのだが、なぜか完璧にドレスアップしないと原稿が書けない。いらいらして頭にくると、シーツを引きちぎる癖がある。ハウスキーパーからの報告に基づいてシーツの請求書が翌朝ドアの下に投げ込まれることになるのだが、いつも文句を言わずに支払っているらしい。世の中つくづくいろいろな人がいるものだ。 「3131号室でございますね。すぐに担当の者に伝えます」 僕は、「そういう件はこちらではなく…」などという無駄な抵抗はしない。なぜなら、人の言うことなど全く聞いてない人だから。 デスクの上の電話を取り上げ、レセプションの内線番号を押す。 「やあ、ダニエルかい? 3131号室のエアコンの調子がおかしいらしいよ」 「ピーター、いつも悪いわね。ありがとう。シーツ破る前に誰か行かせなくちゃ」 笑いながら電話を切ると、ガラスドアの向こうにボックスを抱えた男性が肩でドアを開けようとしているのが見えた。ようやく僕の本当のお客様がみえたようだ。 「コレ、明日中にはロンドンに届くように送りたいんだけれど」 「こちらの伝票にお客様のお名前とご連絡先をお書き下さい。お支払いは現金、クレジットカード、それともお部屋付けになさいますか?」 そう、ここはホテルの中にある航空便会社の出張オフィス。僕はそこに派遣されたマネージャー兼事務員兼ホテルのよろず案内係というわけ。場所のせいか、僕の人柄のせいか、いつも千客万来である。 ◇ ◇ ◇ 腕組みした少女が重いガラスドアを体いっぱいに使って押し開けながら、しかめつらをして入ってきた。ホテルに長期滞在している女性客の娘で九才。父親は極東の国に単身赴任中らしい。学校帰りに立ち寄ったようで、えんじ色の制服姿のままだ。 「やあ、アニー! 調子はどうだい?」 「まあまあだわ」 ぜんぜん『まあまあ』でなんかないのは、顔をひと目みればわかる。顔の半分にくっきり斜線が入っている。どうやら美女の気分はブルーらしい。 「どうだ、一杯飲らないか?」 グラスをぐいと傾けるまねをしてみせる。 「いいわね、ちょうどそんな気分だったの」 口調だけはいっちょうまえだ。ルームサービスでホットチョコレートと好物のブルーベリー入りのマフィンを頼んでやる。 「きょう何か新しく学んだことはあるかい?」 いつもする質問をする。 「年を取ったオジサンはぶつかりそうになってもぜったいによけてくれなくって、オバサンは道の真ん中でも急に止まるわ」 思わず吹きだすが、彼女の表情は冴えない。このくらいの年の少女の憂いの表情は、なんとも胸を衝くものがある。この子の笑顔を見るためだったら何でもしてあげよう、とつい思うのは、僕もそろそろオジサンの仲間入りなのだろうか。でも、僕はまだぶつかりそうになったらよけてあげるけれど…。 届いたホットチョコレートの甘い香りに励まされるようにしてアニーが語ったところによると、問題はあさってに迫ったクリスマス。父親あてに送ったプレゼントがまだ届いていないのだという。 「もう、間に合わないかもしれないわ」 アニーの声はほとんど泣きそうだ。 仕事で忙しい母親がセクレタリーに頼んでアニーのプレゼントを父親が滞在中のホテルあてに送ったのは、もう二週間以上も前のこと。小さいくせに慎重なアニーは、「よゆうをみて送った」そうなのだが、それが届いていない。セクレタリーが調べてみたところ、先方のホテルのある管区まではまちがいなく届いているらしいのだが、そこからの記録がぷっつり途絶えている。 「ゆくえふめいなんですって」 そう言いながら、マフィンから好物のブルーベリーをつまみだして食べているアニーの頬につーっと涙が流れた。 「わかった、僕にまかせなさい」 僕の頭の中では灰色の脳細胞がめまぐるしく動いていた。 クリスマスシーズンにはよくある荷物の滞留、誤配、トラックの荷台の壁のすきまにはさまったままになっている、その他手違いによる保管など、あらゆるケースを想定する。なにしろ、僕の専門分野だ。 懇意のコンシエルジュに事情を話し、アニーの父親のホテルのコンシエルジュに連絡を取り大捜索をかけるよう頼んでもらう。コンシエルジュ間のネットワークは強力だ。 その合間に、「大丈夫だよ、安心しろよ」と涙目のアニーにウィンクしてはげまし、ルームサービスにブルーベリーが特別にいっぱい入ったヨーグルトを頼んでやる。泣きながらでも好物はぺろりと平らげるのは、この年でもやはり女である。 ◇ ◇ ◇ 「おかげさまで助かりましたわ」 アニーの母親がお礼を言いながら、ブルーベリーが入った果物籠を差し出した。 「お好きだとこの子から聞きましたので」 アニーが横でうらやましそうに籠の中をのぞきこんでいる。自分が大好きなものは人も好きだと思っている。まだまだ子どもだ。が、ふと見るとアニーの指先がブルーに染まっている。こいつ、盗み食いしたな…。目が合うとアニーはにっと笑った。未来の美女は食いしん坊だ。 帰りしなにドアのところでアニーが振りかえって言った。 「あなたって、いい人ね」 Yes, I am, maybe. Merry Christmas! 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.71より ■嘘つきはホテルマンの始まり。 二代目ホテルウーマンの物語 「嘘ばかりついているとホテルマンになっちゃいますよ」。 子供の頃、嘘がばれて叱られるとき、ママは眉間にしわを寄せながら、いつもそう言った。 そんなとき、パパは読んでいた新聞をさっと上げて顔を隠し、聞こえないふりをしていたものだ。 そう、パパはホテルマン。ハイスクールを出た後、ホテルスクールに通い、以来ずっとホテルひと筋で生きてきた根っからのホテルマンだ。ホテルマン双六を順調に進み、今は地元ホテルのGM(総支配人)。 パパがホテルマンになったきっかけは父親の一言だったそうだ。 子供の頃、悪童盛りの五人兄弟のうち、三男坊の彼一人だけ、教会にやってくる年寄りたちの毎度おなじみの聞き飽きた話にさも初めてのように耳を傾け、もっともらしく驚いてみせたり、相槌を打ったりしていたそうだ。 そんな息子をみて、「この子はホテルマンに向いているのかもしれんな」と言ったそう。それでなんとなく家族の間でも、この子はホテルマンになるのだという流れになったのだそうだ。一生の職業を決めるにはちょっといい加減だと思うが、まあ、世の中そんなものかもしれない。 幼い頃、その話を聞いて、なんだかよくわからないまま「なるほど」と思い、「じゃあ、牧師さんに向いている人って、どんな人?」とグランパに尋ねたことがある。彼の仕事は牧師さん。 そうしたら、グランパは何かおかしいことを隠すときの癖でしきりにあご髭を引っ張りながら、「うん、まあ、そうだな…ホテルマンと似たようなもんだな」と言って、グランマに目配せした。 私は幼い頃からそういうところにはすごく目ざといタチだったので、すぐにグランマに「似たようなもんって?」と尋ねた。グランマは今になって思えば、彼女が嘘をつくときの常で、アタシの目をまっすぐに見つめながら(サンタさんの話はコレでころっとだまされた)、こう言った。 「エマのパパはおじいちゃんの息子でしょう? だからね、二人はよく似ているっていうことよ」。 その時は、私もまだ小さかったから、「ふーん、そういうことか」と簡単に納得してしまったけれど、グランマもうまく切り抜けたものだ。 ママはパパが働いていたホテルにお客として訪れ、ひとめでお互いに恋に落ちたそうだ。もっともママに言わせると、「ママはパパの嘘にすっかりだまされたのよ」ということになるのだけれど。でも、ママは機嫌がいいときはパパをこう呼ぶ。 「私の大好きな世界一の大嘘つきさん」。 「お客様、特別にお部屋をアップグレードさせていただきました。お二人にお似合いのすてきなスイートルームですよ」 私は、お客様投票で「すてきなスマイル賞」をもらった、とびきりの笑顔を浮かべ、さわやかに言った。 実は、今日はオーバーブッキングで朝から部屋割りに頭が痛い。目の前の人の良さそうな初老の夫婦には、レストランの真下にあるため少々うるさいスイートルームをアサインした。通常はホテルなんか初めてのハネムーナーあたりに恩着せがましく割り当てる、少々難ありの部屋だ。 「まぁ、スイートルームなんて、ステキ! あなた、私たち、なんだかとってもついているわね」 妻の方は若い娘のようにはしゃぎ、夫の方もおそらく人生で最初で最後であろうスイートルーム経験に興奮しているようで、鼻の穴がぷっくりとふくらんでいる。 そんな素朴な彼らの顔をみると、良心が痛まないこともないが、パパはいつもこう言ってたっけ。 「ホテルマンの嘘は人を幸せにする嘘だ」 そう、実は、私もどういうわけだかホテルウーマンになったのだ。 これで我が家は三代続けて「嘘つき」一族ということになる…。 ◇ ◇ ◇ 「もう貴方たちの嘘はうんざりですの!」 ハイスクールの同窓会で久しぶりにパパのホテルを訪れた日のことだった。 バンケット・フロアに向かおうと階段を数段上ったところで、興奮した中年女性の金切り声が聞こえてきた。振りかえると、ロビーの中央で、パパが数人の怒れる婦人たちに取り囲まれて立っている。 ホテルでは日常茶飯事に起きている何かトラブルがあったに違いない。私は、ホテルマンの大先輩であり、我が愛するパパがどう局面を乗り切るのか、そっと見守ることにした。 「ご覧になってくださいな。こうしてちゃんと確認書まで頂戴いたしましたのよ。それなのに来てみたら、お願いした部屋を勝手に変更しただなんて、許せませんわ」 リーダー格の恰幅いい女性が、一枚の紙をかざしながら、つと前に出た。きつい香水の匂い(断じて「香り」ではない!)が十メートルばかり離れたところに立っている私のところにまで漂い、思わず息を止めた。 普通であれば、思わず一歩引くところだろう。ところが、パパは逆に一歩前に出た。彼女とパパの距離はほとんど鼻先がつかんばかり。 パパはごく自然に、にっこりと笑った。私のスマイル賞の遺伝子は、どうやらパパからもらったようだ。 「もちろん承知しております、マダム」 最後の「マダム」というところが、とろけるような甘い発音で、何とも耳ごしがいい。娘の私も思わず、コロッとなりかけたほどだ。きっとママもコレでやられたのだろう。 「すべて私の責任です。どうぞお許しください、マダム」 二発目の「マダム」弾発射! これがだんだんボディブローのように効いていくのがはたから見ているとよくわかる。パパはここで胸に手を当て、ちょっと目を落としてみせた。ホテルマン的誠実さの表現である。 「今朝、部下からこちらのマダムの皆さま方からのご予約の報告を受けまして…」 女性たちひとりひとりにたっぷり二秒ずつ視線を合わせながら言い、マダム効果を全員に波及させた。 「皆さま方のようにすてきなマダムの会合にはご予約されていたお部屋は貧相でふさわしくないから、庭に面したもっと華やかで良いお部屋にと、私の一存で替えさせてしまったのです。本来であればマダムの皆さま方に先にご相談申し上げるべきところでしたのに、本当に申し訳ございませんでした」 なるほど、大切な顧客の予約とダブルブッキングしてしまったのだろう。ウチでもたまにあることだ。 「もちろん、マダムの皆さま方のご希望が何よりも一番です。どのお部屋でも、私が責任をもってご用意させていただきます。マダムの皆さま方にご不快な思いをさせたお詫びに、お部屋代は頂戴いたしません」 ここまで言われて、元の部屋がいいと言い張るお客もいないだろう。これでまあなんとか一件落着、事態がおさまりそうだと思ったその時、ゆるみかけた空気を一気に凍らせるような声がロビーに響きわたった。 「息子よ、おまえは大嘘つきよ」 なんと、グランマではないか! いったい何をとち狂ってそんなことを…。 ◇ ◇ ◇ 「マム…」 思わずパパは一瞬息を飲んだが、そこはあらゆるトラブルを乗り越え、今の地位を勝ち取った「嘘つき」ホテルマンである。にこやかな微笑みを浮かべながら、 「マダムの皆さま方に私の母をご紹介できることを大変うれしく思います。皆さま方と同様、ウチのホテルが大好きでして」 グランマはそんなパパの取り繕いなど耳に入らぬ様子でスタスタと歩を進めると、 「覚えてますか? 幼稚園の頃、大きくなったらボクはママと結婚するんだといつも言ってたこと」 ロビーで息を詰めて成り行きを見守っていた人々がどっと笑った。 「すてきなレディーの皆さんたちをどうして立たせたままにしているんですか? ジェントルマンはそんなことをすべきではありません。早くお席にご案内なさい。皆さん、お許しくださいな。どうやら私の躾が悪かったようですわ。 あら、なんてすてきな香りかしら。何をお使いですの、マダム?」 グランマには誰もかなわない、そう思った時、私は気づいた。 グランマが、かのリーダー格の女性の目をまっすぐにみつめながら話していることを…。 グランマ、貴女はやっぱりパパの母親です。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.70より ■不純な動機、歓迎します。 お坊ちゃまベルボーイの物語 俺、弱冠二十三才。ホテルのベルボーイ。 だけど、この職についた動機は不純だ。 ま、その辺の事情を話すと、ちょっと説明は複雑で長くなるが、我慢してくれ。なにしろ、ステークホルダーが、みんなそれぞれに不純な動機なのだから。 ほお、むずかしい言葉を知ってるなって? ある投資会社のお客が教えてくれた言葉だ。利害関係者、つまり、同じ蜜壺に指突っこんでなめているアリンコってことだな。 で、説明すると、この古くてボロいホテルを所有している会社を所有している会社をさらに所有しているとかいう、ビキニのネエちゃんとひと癖あるツラした若ハゲのニイサンや腹の出たオッサンしかいないカリブの島に本社があることになっている(あるのは紙だけっていうやつ)会社の実質上のオーナーってのが、俺のオヤジ。 ふぅーっ、さすがに長いな。ここで一息つかせてくれ。そう、簡単に言うと、いわゆる縁故採用ってやつ。 だけど、俺がホテルマンになりたがっていたから、親バカチャンリンオヤジがしゃしゃり出てきたわけではない。寒い国からやってきたオヤジが、祖国崩壊のどさくさに紛れて一代で築き上げたビジネス帝国のホテル部門を将来俺に任せるために、まず現場から学べ、と言って送りこんだのでもない。 家に置いといてもろくなことをしないバカ息子の置き場に困っていたところ、ある日、山のような荷物を軽々と持つベルボーイの姿を見て、ハタと思いついたらしい。俺の息子はバカだけれど、力だけはある。見ていると忙しそうな仕事だし、あいつの悪事に向かうエネルギーを適当に消化させるにはもってこいだ、と。運動がわりにもなるわけだ。スポーツジムだと金を払わなければならないが、これだとやっかい払いができる上に、金までもらえる。さすがに一代で成り上がる奴の発想は違う。 で、さっそく秘書を呼んで持ってこさせた資産のポートフォリオをぱらぱらめくっていた時に、たまたま一番最初に目についたホテルがここだったというわけだ。 俺がなんでオヤジのそんなバカな思いつきにおとなしく従ったかって? ちょっと退屈してたからね、オヤジの期待に応えるようなバカ息子らしい悪たれ生活にも。 で、めでたく誕生しました! ピッカピカの新入りベルボーイのピーター様が。 ◇ ◇ ◇ 新人研修ってのが大変だった。いや、俺じゃなくて、教える方がね。 なにしろ、俺の場合、えんぴつを持つだけ、ノートを開くだけで睡魔に襲われる特異体質ってやつで、学校は義務教育でおさらばした。 最初はオーナー様の御曹司ということで、これはうまくやると出世の道が開けるかもと、えらくはりきってやってきた講師のトーマスは、すぐに頭をかかえた。そこで、二日目に俺は提案した。 「アンタが俺に教えようとしていることに関して俺の脳細胞はまったく作動しない。無理だ。けど、アンタが悩んでいるレセプショニストの女の子の落とし方なら、俺は得意だ。お互い無駄はやめて、得意分野をやろうよ」 トーマスは上昇志向があるだけに、決断は早かった。翌日、俺の代わりに研修レポートを書き(俺のオツムの程度に合わせてバカっぽく書くのに苦労していた)、適当にぎりぎりの合格点をつけたテストをねつ造した。 その間、俺は社員食堂やロッカールームをぶらぶらし、社員たちと仲良くなった。レセプショニストに関する情報収集をやったのかって? あのな、俺はそんなのひと目見りゃわかるっつーの! まずは何事も徹底した情報収集からだなんてのは、頭でっかちのアホどもがやることだ。 レセプショニストの落とし方をトーマスに指南してやったところ、翌朝、彼はこぼれそうな笑みで握手を求めた。 GM(総支配人)のリチャードは、笑顔で握手している三秒で俺のことを値踏みした。奴だって、だてにGMやってるわけじゃない。一目見れば、俺がどれほどのものかなんて、すぐお見通しのはずだ。以下、俺の推測。 『ふつうだったら、採用するタマではない。一般教養はゼロ。やる気とか向上心もない。これまでの人生でひととおりの悪さの経験はしてきたようだが、心底ワルではないとみた。コイツを人質にして、私がやりたいことやっちまういい機会だ。結論。私にとっては差し引きプラス(チーン! レジの音だ)』 そう、お互いさまだよ、リチャード君。 ◇ ◇ ◇ その日も、ふだんと変わらない朝だった。 ベルステーションには二日酔いで青い顔した早番たちが夜明けと共によろよろと到着。近所のダイナーのダンが、俺がちょっとしためんどうをみてやった(女と後腐れなく別れるという俺の得意科目)礼に毎朝届けてくるポット入りのコーヒーを分けてやる。 客室に配る新聞の仕分けをしている貧乏学生のトムには、さっきキッチンから新作の味見(俺の味覚は定評がある)の礼にと届いたサンドイッチも持っていってやる。奴からは故国にいる恋人の心変わりの相談を受ける。どういうわけか、男はもうダメだとわかっていることについて、相談したがる。 ロビーの傷んだ花を取り替えている花屋のマダムにも一杯ふるまってやる。「いつも悪いわね」と言いながら、女癖の悪い亭主の愚痴をたっぷりと、心ゆくまでじっくりと聞いてやる(女には、これがポイントだ)。 移民してきて間もない掃除夫にはいつものハイタッチをしてやる。大げさなジェスチャーでうれしそうに「オンリー・ユー。スピーク・ミー」と繰り返す。最近、二語続けて話せるようになったのがうれしいらしい。 ベルキャプテンのジョージがやってくると、ネクタイを締め直してやり(俺はネクタイを締めるのがうまい)、デートの際の服装についてアドバイスしてやる。最近、奴のファッションセンスが飛躍的によくなったと評判だ。 そう、いつも誰かが俺に話しかけており、俺は一日中、けっこう忙しい。 で、肝心のベルボーイの仕事。はたして俺がちゃんとやってるかどうか、大いに気になるだろうな。 「ピーター、ご指名だよ。3302号室、チェックアウト」 通りすがりにそれを耳にしたお客が「ベルボーイにご指名なんてあるのね」と驚いているが、それがあるんだよ、俺にはね。 「おお、待っていたよ、ピーター。さて、ちょっと寄り道して行かんかね?」 スイートルームのソファに座っていたコングロマリッドの会長がいそいそと立ち上がり、いたずらっぽく笑う。 俺は荷物をカートに積みこむと、エレベーターをワンフロアずつ降り、奴のおしゃべりを聞きながら、各フロアをゆっくり一周する。世界各地のビジネス拠点に配置している女性たちの人事管理並びにメンテナンスについてのインターナショナルな相談事だ。こういう「国際関係」も、俺、けっこう得意。 以前に、彼の女房が突然予告なくホテルに乗りこんできた時には、俺の機転のおかげで危機一髪のところを逃れたこともあったっけ。そのとき俺が指揮して打った大芝居と、礼に届いた高額のチップは、今もスタッフたちの間で語り草となっている。 ホテルにリブインしているGMのリチャードのエネルギーがありあまった女房のケアもしている。おっとと、誤解しないで欲しい。鉄砲水のようにあふれ出てくる彼女のおしゃべりを聞いてやっているだけだぜ。 ◇ ◇ ◇ 「アイツが役に立っているなんて、そんな世辞は言わんでもよろしい。自分の息子の出来くらい、わかっとる!」 オヤジはGMのリチャードに向かってそう言ったそうな。 が、お客からの感謝コメントの数々、ホテルのスタッフたちの人気投票でトップになった社内報の記事などを見せながら、俺がこのホテルに来てから、いかに人事問題が減ったか、スタッフ間のコミュニケーションがよくなり、その結果、サービスの質が高まって、お客の満足度も上がったかを彼が力説すると、オヤジはさすがに事業家だ。俺の含み資産価値がわかったらしい。 で、GMに向かってこう怒鳴った。 「おいっ、だったらもっと給料払え!」 そして、俺には一言、こう言った。 「今までどおり、毎日遊んでろ。それが一番カネになる」 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.69より ■ザ・サード・ラブ デリカショップ販売員の物語 「テス、ぼんやりしないで暇な時にはサンドイッチ用の箱でも折っておいてちょうだいな」 目の前にどさっと積まれたボール紙。ウチのホテルのオリジナルの白とオレンジのストライプがいつのまにか心の中を埋め尽くした。 そう、みんなこれのせいなのよ…。 ◇ ◇ ◇ オフィス街にあるホテルのデリカショップに勤めはじめて三年目になる。 忙しい時間帯は決まっている。ビジネスマンたちが朝食用にサンドイッチやクロワッサンを買い求める出勤前の朝、お使い帰りのOLと暇な窓際族が空いているうちを狙ってやってくる十一時すぎ、戦争としか言いようがないランチタイム、そして、残業食を求めて少々疲れ気味の人々がやってくる八時の閉店間際。その合間にランチ帰りの奥様たちが買い物に立ち寄っていく。それ以外は、体を動かす仕事はそれなりにあるけれど、頭を使うことはあまりない。 ふぅーっ。暇だとため息が出る。ため息をつく度に、眉のところで切りそろえた前髪が舞い上がる。そういえば、肺活量は学年で一番だったっけなぁ…それで水泳部に勧誘されて入り、練習中、ターンした時にぶつかった男と一度目の恋をした。キャップかぶってゴーグルしていると、男って誰でもカッコよく見えるものだ。でも、いったんつきあい始めてしまったら、実は貴方の素顔は私のタイプではありませんので、ふだんもゴーグルしててください、なんて言えるわけない。そんなのでうまくいくはずもなく、すぐに別れるはめになった。 二度目は、新人研修に遅れそうになって廊下を突っ走っていたところ、反対側から走ってきた男とコーナーのところでごっちんこ。二人そろって石頭で仲良く失神、運び込まれた医務室でカーテン越しに話すうちに恋に落ちた。 それにしても、私の恋って、どうも出会い頭の偶然ってのが多いというか、かなりいい加減なような気がする。だって、一度目も二度目も失敗に終わったもの…。 二度目の恋は悲しかった。二年ばかりつきあい、それなりに彼のことを好きでもあったし、結婚も頭の中でちらついていた。ところがその男は、ある日突然、別の女と手をつないで現れ、私の目の前を通りすぎて行ったのだった。ああ、私はいったい何を見ていたのだろうか。 さて、一人目、二人目、そして…三人目、彼らの共通項は何だろうか? ランチ用に紙ナプキンをせっせとたたみながら頭の中で考える。 みんなタイプが違うような気がする。私って、かなりいいかげん? 二度の失敗は、はたして三度目に生かせるものなのか? 恋も三度目なら、少しはおりこうになれるものだろうか。でも、二度あることは三度あるとも言う。いや、三度目の正直というのもある。いったいどっちが正しいのか。いや、もしかして、どちらも正しくはないのかも。う?ん、困った…。 「あの…お取組中たいへん申し訳ないけれど、そこのサンドイッチ、ひとつもらえるかな?」 白とオレンジ色のストライプのシャツを着た男が笑いながら立っていた。 ああ! もう一度言わせてもらいたい、ああ! そう、彼こそ、私の「第三の男」、ザ・サード・ラブの相手なのだ。 ◇ ◇ ◇ 半年前のことだった。「これ、ください!」閉店間際に飛びこんできた男が十ドル札と一緒にサンドイッチの箱を差しだした。うつむいて伝票を整理していたいた私は、目の前につきだされた箱にブルーのインクのような染みがついているのに気づいた。おや、なんだろう? 何かが付着していると思い、箱の上を軽く叩いた。取れない。もう一度、もっと強く叩いてみた。だめだ、取れない。じゃあ箱を取り替えようと思って引っ張ったところ、箱だと思ったストライプが、すっと動いた。 「右の頬を叩かれたら、左の頬を出せ…の教えに従って黙って叩かれてみたんだけれど、何か僕を叩く理由があるのかい?」 黙って二度も叩かれるな! と言いたかったけれど、なにしろ相手はお客様。 「……」 「代わりに言ってあげようか? そう、それは箱かと思ったら、なんと、生きた人間の腕だったのです」 こういう場合、ありがとうと言ったらいいのか。それとも、すみませんと言ったらいいのか。考えているうちに、男は笑いながらサンドイッチの箱を手に去って行った。よく通る声と後ろ姿の肩のあたりが私のタイプ、のようだ。 その日以来、彼は一日に一度は店に立ち寄るようになった。いつもワイシャツ姿で来るのを見ると、ホテルが入っているビル内にオフィスがあるらしい。 残業用にサンドイッチを買っていくこともあれば、週末にはスモークサーモンにローストチキン、ラタトゥイユ、チーズ、バゲット、デザートのタルトなんかを買っていくこともあった。自宅でのディナー用だろう、恋人と一緒に食べるのだろうか、いや、二人分にしては量が少なすぎる。でも、他に何か用意してあるのかもしれない。ほら、だって、デザートは苺のタルトとチョコレートエクレアを買っているし。だが待てよ、もしかしたら甘党なのかも。だって、コーヒーはいつもローストしたてのものを百グラムずつ買っていくし、おそらく一人暮らしにちがいない。いやいや、恋人とは別々に住んでいても、お互いに訪ね合う間柄ということもあるだろう。 不思議なことに、彼はいつも白とオレンジのストライプのシャツを着ている。私は密かに「オレンジのストライプ野郎」と呼んでいる。ネクタイとスーツは毎日変えているのに…。もしかして、会社のユニフォーム? とも思ったが、時々、同僚たちと一緒にやって来るのを見ると、そうではないらしい。うーん。気になってしょうがない。まず、スーツとネクタイを買い、最後にシャツを一枚だけ買ったところで突然金欠に陥り、シャツがあれしかなくなった。でも、だとしたら、洗濯はどうしているのだろう? 毎晩、帰ったらすぐに洗って乾かしてアイロンをかけ、朝また着る…。その情景を逐一頭の中でイメージしてみたりする。 何やっているんだろう、私は。かなり重症だ。二度の経験から、どのくらい症状が重いかはよくわかる。 ああ、それにしても、なんて考えることが多い男なのだろうか? ◇ ◇ ◇ ある日のこと。たまたま店に誰もいない時に彼が来た。クロワッサンとコーヒーの包みを手渡しながら、何気なく尋ねてみた。 「オレンジのストライプのシャツ、お好きなんですね」 「 いつかそう言ってもらう日が来ると思ってね、一ダースまとめ買いしたんだよ」 「は?」 思わず見上げた私は初めて彼と真正面から向き合った。きれいなグリーンの瞳をいたずらっぽく輝かせながら、まっすぐに私の目を見つめている。心臓がシューッと音を立てて収縮していく。ああ、もう、ダメ。何から何まで全部、私のタイプだわ。 「このシャツのおかげで僕のことを覚えてくれたんだろう?」 「ええ、オレンジのストライプ野郎って…おっと、エクスキューズ・ミィー」 あわてて口に手をあてたが、遅かった。『おまえは思ったことをすぐに口に出すけれど、口は災いのもとだからね。こうして、いったん心の中にしまってね、よーく考えてから話すんだよ』幼い頃、祖母が口にチャックをしたのを思い出した。うなだれていると、 「名前まで付けてくれて光栄だけれど、今度からはスティーヴって呼んでくれるかな? それにしても、シャツ一ダース分の投資効果があったな。実は、君に注目してもらいたくって、この半年間毎日こればかり着てたんだぜ。ほら、君っていつも下向いて、ほとんどお客の顔、見ないからさ」 彼が晴れ晴れとした笑顔でこう言ったのには驚いた。マラソンだって、経験者が強いという。私も自慢じゃないが、恋も三度目である。二度の経験をもってしてみると、どう考えても、これって、もしかして、恋の告白…? が、問題は、二度あることは三度ある方なのか、それとも三度目の正直なのか、どっちだろう? うーん、しかし、ここで首なんかかしげてかわいくトボけて見せるには少々年を食いすぎている。駆け引きなしで飛びこんで行くか。ま、これも三度目の恋ゆえの妙味かも。よしっ! と思い切って息を吸い込んだところ、 「君って、頭の中で考えていることが次々にシーン展開するように顔に出るんだね」 ぜんぶ読まれていた。 けれど、そんな相手と素顔で恋を楽しめるのも、三度目の恋だから。 情報誌「ホテルジャンキーズ」Vol.66より (c)copyright 2011 Hiroshi Mori Corporation, All Rights Reserved. | ||||